名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 老兵の一言と組頭の責め
○勝茂鐵砲射的を覘る時、齋藤用之助、前にあり、火蓋を切り、空に向て放ちたり。矢廻の者玉なしと言ふ。用之助立ちながら高聲に申すは、何れに玉はあろふか、此年まで終に土射たることなし、去りながら妙な生れ付にて敵の胴中を射ることは遁さず、其證人は飛驒殿生きおぢやると申たり、勝茂大に怒り、手刄せんと思ひしが、先づ其場を忍びて歸り、直茂に告げて、如何樣にも仰付られ度と言ふ。直茂聞き、其方立腹尤も至極なり、即ち寄親富岡喜左衞門に腹を切らせ候へと荒らかに言はる。勝茂、喜左衞門は何の罪も之なく、只用之助を如何樣にも仰付られ度と申ければ、直茂頃日組頭共へ申聞け候は、箇樣打續き天下泰平のことなれば若き侍共油斷致し、武具の取扱も知らず、徒らに罷在候はゞ、自然の時用に立ざること之ある間、近々射的を致させ、信濃守へ見せ候て、然るべくと申付たり。是は不鍛錬の若輩者のことなり、夫に老人の用之助を引出し、若輩者並に的を射させたること、無調法千萬寄親越度、此上なし、用之助が申分尤も至極せり、彼者が證人は、成る程、我等なり、早速組頭に切腹申付べくと言はれければ、勝茂種々陳謝ありて、其事濟みしとぞ。
新字:○勝茂鉄砲射的を覘る時、斎藤用之助、前にあり、火蓋を切り、空に向て放ちたり。矢廻の者玉なしと言ふ。用之助立ちながら高声に申すは、何れに玉はあろふか、此年まで終に土射たることなし、去りながら妙な生れ付にて敵の胴中を射ることは遁さず、其証人は飛驒殿生きおぢやると申たり、勝茂大に怒り、手刄せんと思ひしが、先づ其場を忍びて帰り、直茂に告げて、如何様にも仰付られ度と言ふ。直茂聞き、其方立腹尤も至極なり、即ち寄親富岡喜左衛門に腹を切らせ候へと荒らかに言はる。勝茂、喜左衛門は何の罪も之なく、只用之助を如何様にも仰付られ度と申ければ、直茂頃日組頭共へ申聞け候は、箇様打続き天下泰平のことなれば若き侍共油断致し、武具の取扱も知らず、徒らに罷在候はゞ、自然の時用に立ざること之ある間、近々射的を致させ、信濃守へ見せ候て、然るべくと申付たり。是は不鍛錬の若輩者のことなり、夫に老人の用之助を引出し、若輩者並に的を射させたること、無調法千万寄親越度、此上なし、用之助が申分尤も至極せり、彼者が証人は、成る程、我等なり、早速組頭に切腹申付べくと言はれければ、勝茂種々陳謝ありて、其事済みしとぞ。
書き下し
○勝茂鐵砲射的を覘る時、齋藤用之助、前にあり、火蓋を切り、空に向て放ちたり。矢廻の者玉なしと言ふ。用之助立ちながら高聲に申すは、何れに玉はあろふか、此年まで終に土射たることなし、去りながら妙な生れ付にて敵の胴中を射ることは遁さず、其證人は飛驒殿生きおぢやると申たり、勝茂大に怒り、手刄せんと思ひしが、先づ其場を忍びて歸り、直茂に告げて、如何樣にも仰付られ度と言ふ。直茂聞き、其方立腹尤も至極なり、即ち寄親富岡喜左衞門に腹を切らせ候へと荒らかに言はる。勝茂、喜左衞門は何の罪も之なく、只用之助を如何樣にも仰付られ度と申ければ、直茂頃日組頭共へ申聞け候は、箇樣打續き天下泰平のことなれば若き侍共油斷致し、武具の取扱も知らず、徒らに罷在候はゞ、自然の時用に立ざること之ある間、近々射的を致させ、信濃守へ見せ候て、然るべくと申付たり。是は不鍛錬の若輩者のことなり、夫に老人の用之助を引出し、若輩者並に的を射させたること、無調法千萬寄親越度、此上なし、用之助が申分尤も至極せり、彼者が證人は、成る程、我等なり、早速組頭に切腹申付べくと言はれければ、勝茂種々陳謝ありて、其事濟みしとぞ。
現代語訳
勝茂が鉄砲の射的を見ていた時、斎藤用之助が前に出て、火蓋を切り、空に向かって撃った。矢廻りの者が「弾が入っていない」と言った。用之助は立ったまま高声で言った。「どこに弾があろうか。この年になるまで一度も土を撃ったことはない。だが妙な生まれつきで、敵の胴を撃つことは外さぬ。その証人は飛騨殿が生きておられるぞ」。勝茂は大いに怒り、手討ちにしようと思ったが、まずその場は堪えて帰り、直茂に告げて、「どうとも処置させてください」と言った。直茂は聞いて「お前の立腹はもっともだ。直ちに、寄親の富岡喜左衛門に切腹させよ」と荒々しく言った。勝茂が「喜左衛門には何の罪もありません。ただ用之助をどうとも処分したいのです」と言うと、直茂は言った。「近ごろ組頭たちに、このように天下泰平が続くと若い侍が油断し、武具の扱いも知らずにいたずらに過ごしては、いざという時に役に立たないので、近々射的をさせ、信濃守に見せよと命じておいた。これは鍛錬の足りない若者のためのことだ。それなのに老人の用之助を引き出して、若者並みに的を撃たせたのは、不手際千万で、寄親の落ち度はこの上ない。用之助の言い分はもっともで、その証人は、なるほど私だ。すぐに組頭に切腹を命じよう」。勝茂は種々詫びて、そのことは済んだという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 孝行の盗人を許す○勝茂の代に、輿賀の庄に脇穗を刈り盗みたる者あり、糺問の末に、死刑に定まりたり、直茂聞て不審に思ひ、橫目の者を遣はし、之を糺さしむるに、盜の曰く、此三ヶ年老母相煩ひ某ことは、何方へも奉公杯もせず、混たと相副看病致居候へば、手前困窮致したることは據なく候、然るに母申すは、早苗の米少し食し度と申候間、是非に及ばず、脇穗を刈り少し計り母に食はせ候と、直茂聞て、仔細あるべきことゝ思ひしに、果して然りとて、殊の外不憫に思ひ、米拾俵を與へ、如何にも能く母へ孝行を致すべし、猶不足あらば、重ねて與ふべしと言て、其罪を赦せり。 ○天正十四年四月、秋月種實使を薩摩に遣はし、兵を乞ふの時、使人を選び薩州へ遣はす、此使直茂の館に立寄り、右の趣申述ければ、直茂、箇樣のことは使者の申樣肝要なり、其仔細は舞や平家抔も上手と下手とは同じ言葉なれども、語り樣にて、格別此方の心入相違するものなり、隨分言葉を巧に、理を細かに申さば、薩州勢の出張は、疑あるべからずと言はる、使者領して去る。果して義久兵を出せり。 ○直茂、一日接木をさせて之を見る、傍に居る某に、汝も接木をするやと問ふ。某最早年が末に相成候間、左樣なることは仕らずと言ふ、直茂、偖々汝は沙汰の限りなり、汝が見るべきと思候や、なぞ子供孫供へは取らせぬぞ、物毎我爲め計りにせぬものぞ、末代他人の爲めとするものぞと言て、叱られたり。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 槍の錆と鞘の中○正則の士、夫銀取過ぎたりとて、廣島の百姓六人江戸へ來り、目安を以て訴へたり。正則之を聞き、臺所役人に、遠方罷越せしことなれば、隨分馳走せよと申付ける、百姓共は大に喜び居たりしが、士は肩唾を呑みて居たりけり。四五日過ぎしかば、彼百姓六人を白洲に呼出し、悉く首を剿たり。正則曰く、銀五百目や、六百目のことにて、正則が先途を見屆けんとて、不便なる妻子を捨る士共へ迷惑させんこと思ひも寄らず、愕々懼き百姓共哉と言はれければ、諸士皆感涙を流せり。 ○正則、或日城を出る時、門外の石垣に鎗立掛けあるを見て、あれは誰が鎗なるぞ、日當りに立置きては、汗をかくものなれば、置き直せと申けるを、歩行者狼狽へ、尚ほ日當りに持行きたり。正則腹立し、自身取て置直すとて、鞘を拔て見るに、赤く鏽たり。正則皆拔くに及ばず、士の一本道具を鏽さする腰拔奴、誰が鎗なるぞと罵りて投捨る、其鎗は可兒才藏吉長の鎗なり、吉長憤怒し、先を見給へと言ふ。正則叉取つて先を見るに、鎗先三寸程氷の如く研立たり。吉長憤り、鎗は先にて突くものにて候と言ふ。正則大に驚き、其儘鞘に納め、押戴て自身立掛け置しとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 主君の首を拾わぬ判断○島津家より、河上助七郎をして隆信の首を差送りたり。助七郎、筑後の榎津へ船を着けて、其趣を申越す。直茂國の强弱を伺ふことと察し、大隈安藝守を以て答て曰く、隆信の首を差送られ御志の至りには候へ共、不運の首此方へ申請ても益なきことなり、何れになりとも捨置かれよとなり。助七郎力に及ばず、首を持歸り、高瀬の願行寺に葬りて歸れり。此役老功の者、悉く討死し、龍造寺の家危急なりしかども、直茂の武略を以て、國中には敵一人も足を踏まず、政家全く肥前を踏み靜めたりしは、直茂の力なり。是より諸人彌々直茂を家の柱の如く思ひけり。 ○十五年、秀吉九州を平げ、歸京の後、侍臣に向ひ、我今度西國にて珍敷物を見たりと言はれける。何を御覽じたるやと尋ねければ、鍋島飛驒守と曰ふ者なりと言はれけり。 ○加藤清正曰く、我等若年より、所々に於て數度の鎗を致したれども、朝鮮にての軍の樣に、仕能きことは之なし、其故は鍋島加州丈夫の弓執にて、終に先を望まれしこと之なく、公儀よりの仰付られを、堅く相守られし故、心易く存じ、合戰心能くし、朝鮮にて名譽を播したり。是偏に加賀守の武功故なり、彼方二の目より先を望まるれば、殊の外軍致し惡く存じたる由、時々物語ありしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 三つの器と法の運用○秀吉伽の者、或時秀吉に向ひ、當時天下を取り申す器量の大名之あり候やと問ければ、秀吉、天下を取ることは大氣勇氣智惠なければならず、此三つを兼ねたる大名一人もなし、又小者には二つづゝ兼ねたる者三人あり、上杉が直江山城、是は大氣勇氣あれども、智惠掛合はず、毛利が小早川左衞門、是は大氣智惠あれども、勇氣掛合はず、龍造寺が鍋島飛驒守、是は勇氣智惠あれども、大氣がなし、大名には是程の者もなしと言はれたり。 ○直茂曰く、義理程感深きものはなし、從弟抔の死たる時、涙を流さぬこともあるに、緣りもなく、見も知りもせぬ、五十年も百年も以上の人の上を聞て、義理なることには、落淚するものなりと。 ○又曰く、上下によらず時節到來すれば、家が崩るゝものなり、其時崩す間敷とすれば、きたな崩しするなり、時節到來と思はゞ、崩したるが能きなり、其時は抱留ることもあるものなりと。 ○又曰く、我氣に入らぬことが、我爲めに成るものなりと。 ○又曰く、家々の掟は種々あるべし、其内に火あぶりは磔、磔は切腹、切腹は浪人、浪人は只叱りて置くべし、叱る者は只やわらかにすべし、叱るべき者を浪人、浪人さすべき者を切腹、切腹さすべき者を磔、磔に掛くべき者を火あぶりと、箇樣にせば、其過分の積る所、勝茂の身の上たるべし、返す〱罰は輕くし、少しの忠も重くせば、家は連續すべしと。故に勝茂より法に背きたる者を罰すべくと言はれし毎に、何角と言直され、助けられし者寡なからずとぞ。