名将言行録 / 『名将言行録』豐臣秀吉 金崎の殿を買って出る
○元龜元年四月、信長、朝倉義景を攻む。淺井久政、長政、信長の違約を怒り、義景に與力す。信長大に驚き、前後に敵を受けては叶ふまじと思ひ、金崎の手當を置き、引取らんとせし時、誰なりとも一人殘つて敵を押さへよと言はれけれども、何れも返事なし。時に秀吉進み出て、今度は大事の後殿なり、某に仰付られ賜はるべき由望み申す。信長大に感じ、秀吉に命ず。偖も今度秀吉が無勢なるを以て、大切の後殿を望み得んこと、忠義勇敢、旁、以て名譽なれば、傍輩の諸將も、之を感じ、五騎十騎二十騎づつ人數を留めて、秀吉に合力しけり。信長、偖は心安しとて、二十八日の夜敦賀を引拂ひたり。秀吉は七百餘騎の兵を引分け、三百騎は引隱くし、殘る四百騎を二段に立つ。金崎の城には、信長引取るを見て、此城の押さへに木下藤吉郎が残りたり、あの小勢にて此城を押さへんや、いで物見せんとて、朝倉中務大輔、一千餘騎の勢にて叫き叫て切て出る。兼ねて謀りしことなれば、秀吉先手二百騎、頓て敗北したり。敵之を見て勢に乘じて、突掛りしかば、跡なる勢も敗北し、擊るゝもの十七八騎に及びたり。秀吉、能き時分を見計らひ、討死爰なりと名乘掛けて取て返し、暫し戰ふ所に、隱くし置きたる三百餘騎一度に曈と鬨を作り叫き叫て切て掛れば、なにかは溜るべき、朝倉勢我先にと敗北す。秀吉追擊七八十騎討取り、既に門際まで押込み付入に成るべかりしを、毛屋七左衞門能く見計らひ、門を閉ぢたる故、城は取らざりけり。城兵、秀吉の振舞を感じ、相談して兎角討死を究めたる秀吉と軍して詮なしとて、扱を入れ、御退き候へ、少しも構ひ申間敷旨申ければ、然らば人質を出されよ、爰を引取り申すべくとありしかば、安き御事なりとて人質を出だす。秀吉共所を退き、若狹より、人質を返し、京都に馳上り、此由具に申しければ、信長感悅斜めならざりけり。
新字:○元亀元年四月、信長、朝倉義景を攻む。浅井久政、長政、信長の違約を怒り、義景に与力す。信長大に驚き、前後に敵を受けては叶ふまじと思ひ、金崎の手当を置き、引取らんとせし時、誰なりとも一人残つて敵を押さへよと言はれけれども、何れも返事なし。時に秀吉進み出て、今度は大事の後殿なり、某に仰付られ賜はるべき由望み申す。信長大に感じ、秀吉に命ず。偖も今度秀吉が無勢なるを以て、大切の後殿を望み得んこと、忠義勇敢、旁、以て名誉なれば、傍輩の諸将も、之を感じ、五騎十騎二十騎づつ人数を留めて、秀吉に合力しけり。信長、偖は心安しとて、二十八日の夜敦賀を引払ひたり。秀吉は七百余騎の兵を引分け、三百騎は引隠くし、残る四百騎を二段に立つ。金崎の城には、信長引取るを見て、此城の押さへに木下藤吉郎が残りたり、あの小勢にて此城を押さへんや、いで物見せんとて、朝倉中務大輔、一千余騎の勢にて叫き叫て切て出る。兼ねて謀りしことなれば、秀吉先手二百騎、頓て敗北したり。敵之を見て勢に乗じて、突掛りしかば、跡なる勢も敗北し、撃るゝもの十七八騎に及びたり。秀吉、能き時分を見計らひ、討死爰なりと名乗掛けて取て返し、暫し戦ふ所に、隠くし置きたる三百余騎一度に曈と鬨を作り叫き叫て切て掛れば、なにかは溜るべき、朝倉勢我先にと敗北す。秀吉追撃七八十騎討取り、既に門際まで押込み付入に成るべかりしを、毛屋七左衛門能く見計らひ、門を閉ぢたる故、城は取らざりけり。城兵、秀吉の振舞を感じ、相談して兎角討死を究めたる秀吉と軍して詮なしとて、扱を入れ、御退き候へ、少しも構ひ申間敷旨申ければ、然らば人質を出されよ、爰を引取り申すべくとありしかば、安き御事なりとて人質を出だす。秀吉共所を退き、若狭より、人質を返し、京都に馳上り、此由具に申しければ、信長感悦斜めならざりけり。
書き下し
○元龜元年四月、信長、朝倉義景を攻む。淺井久政、長政、信長の違約を怒り、義景に與力す。信長大に驚き、前後に敵を受けては叶ふまじと思ひ、金崎の手當を置き、引取らんとせし時、誰なりとも一人殘つて敵を押さへよと言はれけれども、何れも返事なし。時に秀吉進み出て、今度は大事の後殿なり、某に仰付られ賜はるべき由望み申す。信長大に感じ、秀吉に命ず。偖も今度秀吉が無勢なるを以て、大切の後殿を望み得んこと、忠義勇敢、旁、以て名譽なれば、傍輩の諸將も、之を感じ、五騎十騎二十騎づつ人數を留めて、秀吉に合力しけり。信長、偖は心安しとて、二十八日の夜敦賀を引拂ひたり。秀吉は七百餘騎の兵を引分け、三百騎は引隱くし、殘る四百騎を二段に立つ。金崎の城には、信長引取るを見て、此城の押さへに木下藤吉郎が残りたり、あの小勢にて此城を押さへんや、いで物見せんとて、朝倉中務大輔、一千餘騎の勢にて叫き叫て切て出る。兼ねて謀りしことなれば、秀吉先手二百騎、頓て敗北したり。敵之を見て勢に乘じて、突掛りしかば、跡なる勢も敗北し、擊るゝもの十七八騎に及びたり。秀吉、能き時分を見計らひ、討死爰なりと名乘掛けて取て返し、暫し戰ふ所に、隱くし置きたる三百餘騎一度に曈と鬨を作り叫き叫て切て掛れば、なにかは溜るべき、朝倉勢我先にと敗北す。秀吉追擊七八十騎討取り、既に門際まで押込み付入に成るべかりしを、毛屋七左衞門能く見計らひ、門を閉ぢたる故、城は取らざりけり。城兵、秀吉の振舞を感じ、相談して兎角討死を究めたる秀吉と軍して詮なしとて、扱を入れ、御退き候へ、少しも構ひ申間敷旨申ければ、然らば人質を出されよ、爰を引取り申すべくとありしかば、安き御事なりとて人質を出だす。秀吉共所を退き、若狹より、人質を返し、京都に馳上り、此由具に申しければ、信長感悅斜めならざりけり。
現代語訳
元亀元年四月、信長は朝倉義景を攻めた。浅井久政・長政は信長の違約を怒り、義景に加勢した。信長は大いに驚き、前後に敵を受けては勝てまいと思い、金崎の守りを置いて引き取ろうとしたとき、だれでも一人残って敵を押さえよと言われたが、いずれも返事がない。そのとき秀吉が進み出て、今度は大事な後殿です、私に仰せ付けくださるようお願いします、と望んだ。信長は大いに感じ入り、秀吉に命じた。さて今度、秀吉が無勢であるのに大切な後殿を望み得たことは、忠義・勇敢、かたがた名誉であるので、同輩の諸将もこれに感じ、五騎、十騎、二十騎ずつ人数を残して、秀吉に合力した。信長は、それならば安心だと言って、二十八日の夜、敦賀を引き払った。秀吉は七百余騎の兵を引き分け、三百騎は隠して、残る四百騎を二段に立てた。金崎の城では、信長が引き取るのを見て、この城の押さえに木下藤吉郎が残っている、あの小勢でこの城を押さえられるものか、さあ見せてやろうと、朝倉中務大輔が、一千余騎の勢で叫び叫んで切って出た。かねて謀ったことなので、秀吉の先手二百騎は、たちまち敗北した。敵はこれを見て勢いに乗って突きかかったので、後ろの勢も敗北し、討たれる者十七、八騎に及んだ。秀吉は、よい頃合いを見計らい、討ち死にはここだと名乗りかけて取って返し、しばらく戦うところに、隠しておいた三百余騎が一度にどっと鬨の声を上げ、叫び叫んで切りかかると、どうして支えられようか、朝倉勢は我先にと敗北した。秀吉は追撃して七、八十騎を討ち取り、既に門際まで押し込んで付け入るはずだったのを、毛屋七左衛門がよく見計らい、門を閉じたので、城は取らなかった。城兵は秀吉の振る舞いに感じ、相談して、とにかく討ち死にを覚悟した秀吉と戦っても詮ないとして、仲裁を入れ、お退きください、少しも構いません旨を申したので、それならば人質を出されよ、ここを引き取ろうと言ったところ、たやすいことだと人質を出した。秀吉はその所を退き、若狭から人質を返し、京都に駆け上って、このことを詳しく申すと、信長の感悦は並々でなかった。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 評・最初の武勲金崎の殿軍である。秀吉が、最初の武勲である。
-
名将言行録・『名将言行録』織田信長 夜の焚き火から読む敵○姊川の役、淺井久政、長政、援を朝倉に乞ふ。義景則ち朝倉孫三郎景健に、一萬餘人を付けて後詰さす。二十七日越前勢大寄山に屯し、夜に入て淺井父子、朝倉景健と會合して軍議す。時に長政大寄山より、信長の本陣まで行程五十餘町を隔つ。直ぐに掛りて戰はゞ、人馬共に勞れ利あるべからず、今夜是より野村、三田村へ陣を移し、二十八日早天に軍を發し、敵の不意を擊んと言ければ、淺井半助熟々信長の兵を用ふるを見るに、其敏きこと猿猴の梢を傳ふが如く、敵の機を早く察し、忽ち手段を改むる將なれば、味方の謀を察し、容易には野村、三田村まで陣を移させらるべからずと言ふ所に、遠藤喜右衞門直繼、君の謀、圖に當れりと勸めしかば、彌よ野村、三田村へ出張し、一戰に及ばんとて、旣に其支度に及べり。然るに信長は明察なる大將なれば、終夜敵陣の燒火を熟視して、偖は淺井朝倉今夜大寄山の陣を拂て、朝合戰に掛ると覺ゆ、是我が望む所なりと言て、則ち備を定めて之を待ち、果して、大に之を敗れり。○二年九月、信長比叡山延曆寺を亡さんと欲し勢田に陣し、諸將に命じ、火を放ち叡山を焚かしむ。諸將皆色を失ふ。佐久間信盛等、諫めて桓武帝、此寺を創建し給ひしより、爰に幾千年、王城の鎭たり。依て古より今に至るまで、誰ありて一人之を犯せし者候はず、然るに今之を亡されなば、如何あるべきやと言ふ。信長吾國賊を除んと欲するのみ、汝輩何ぞ我を阻するや、吾四海を定め、王道の衰ふるを興さんと欲し、筋骨を勞し、身命を輕んじ、未だ嘗て一日も安居せず、去年攝津を略し、兩城將に陷らんとする時に當り、淺井長政、朝倉義景兵を擧げ、我が後を窺ふ、吾依て兩城を舍てゝ返り、二賊を山上に棲ましめて、以て之を殲さんと欲し、人を遣はし、僧徒を諭し、禍福を陳說せしむと雖も、彼竟に服せず、務めて凶徒を助け王師に梗せり。
-
名将言行録・『名将言行録』柴田勝家 老いを恐れぬ軍の始末○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、淺井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科邊を放火し、近日京都へ亂入の由聞えければ、信長大に驚き、將軍義昭を守護し、二十二日の曉天に中島を引拂ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々歸京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ攝津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ將軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は將軍家を守護せられ、暫く京都へ御人數を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御發向然るべしと。信長勇氣に餘りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戰場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を經廻るべき樣やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け參り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の內、戰場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四疊半敷の數奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ歸りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す樣、若き殿の早らせ給ふに、我等が樣なる年寄の同じ樣に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ歸り、九條より一條まで、勝家自身高聲に觸れけるは、信長公は御機嫌能く、攝津より御凱陣にて、淺井、朝倉御退治の爲め、直ぐに坂本に御發向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 義昭を討たせぬ諫言○天正元年、信長宇治槇島を攻る時、秀吉、信長の前に出で、義昭公始終の御成行を何にと遊ばさるべき御賢慮にやと問ふ。信長曰く、義昭公の此度の御企實以て不當なれば、天下の爲めに、此君を除き奉ろべきなり、元より自業自得と曰ふべし。秀吉曰く、上意の趣透間なく候へ共、最早味方、川を渡して攻詰めんには、立ち所に落城致すべし、其時義昭公へ御自害を勸め奉る者あらんも量り難し、如何に柔弱におはしますとも、義昭公若し雜人の手に掛らんよりはと思召御自害あらば、後悔すとも、甲斐あらず、左あらば殿には主君を弑し給ふと、天下後世に言はれ給ふべし、但し三好長慶が萬松院殿、光源院殿、兩將軍を輔佐し奉りしこと、涯分の力を盡くし候へ共、終には逆臣の名を取て候、哀れ寛裕の御沙汰こそ願はしけれ、此處實に大切の御場合なりとありければ、信長如何にもとありて、秀吉の意に任せられけり。秀吉乃ち、河州若江の三好義繼方へ護送しけり。
-
名将言行録・『名将言行録』竹中重治 城を返し、敵の勢いを避ける○織田信長、重治が稻葉山の城を襲ひ取りしと聞き、其城參らせたらんには、美濃半國を賜はろべしと申越されしに、重治我國にあらん城、他國の人に參らせて所領賜はらんこと、望む所にあらず、と言つて參らせず、一年を經て後に城をば、龍興に返し與へ、我身は江州に立退きしなり。信長も重治が美濃に在りし間は、敢て美濃を侵さゞりけり。 ○重治、信長に隨從せしかば、信長頓て餘多の侍付けて、秀吉に副へられたり。秀吉、江北橫山の城に向つて要害を構へ、對陣ありし時、淺井下野守久政、七千騎を引率し、朝妻指して發向せしを、秀吉見て兵を出さんと言ひしを、重治否々あの勢は朝妻へ行く樣に見せしかども左にはあらず、戰を持ちし敵なり、多分是へ攻掛り候べし、御勢出過ぎたり、急ぎ上の段へ引上げさせ給へ、敵假令戰を挑むとも、一人も出されず、來鋭を避け、惰氣を擊給へと申しゝかば、尤もなりとて、上の段へ引揚げ、備を固めて居たる所に、案の如く秀吉の備に向つて、眞黑に成りてぞ掛りける。重治、合戰の義は某に御任せ置かるべしと言つゝ、手勢千計りを二手に成し切所を前に當て一足も出させず、弓銃を放つべからずと固く制し置き、敵侮り來りしを、五間十間に引付け、すは打てや射よや者共と下知し、二十騎計り射倒しければ、之に辟易し進み得ず、然れども猶靜まり返て、一人も出さず、兎角せし間に、晩日に及びしかば、敵引取らんとぞ見えにける。重治手勢の者に迯ろこともあろべし、其分心得候へと言ひつゝ、馬引寄せゆらりと打乘り、左右の山々谷々へ弓銃の者を遣はし、組頭共に、宜きに計らひ打たせ申べし、敵返しなばさつと引き、彌々日を暮らし、方々より曳々聲を揚げ付慕ふべしと申付しかば、其道に得たる者共にて、峰々谷々より無け敷樣に、仕掛け送りけるに、日は彌々暮れ、道もたどゞ〱敷なりしに依り、足早やに引取らんとしける所を、重治突と閧を作り立、引付て首若干討取り、さつと引揚げたり。
-
名将言行録・『名将言行録』織田信長 護衛に木下秀吉を選ぶ○義昭、旣に二條に移り、信長に謂て曰く、方今兵革未だ止まず、去れば驍將一人を留めて、我を衛護すべしと。時に佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、宿將なるを以て、任用せらる。人皆二條の護衞は必ず三將の中ならんと思へり。旣にして信長、木下秀吉に命ず。衆皆驚愕せり。群臣秀吉の寵遇を嫉みて屢之を讒すれども、信長之を待すること愈々厚し。常に曰く、人を用ふるの道は能否を撰ぶべし、何ぞ新故を論ぜんと。信長の人を知り、善く任ずること斯の如し。衆是を以て之に服せり。 ○應仁以來、京師屢々兵革を歷、皇宮大に壞れり。信長命じ、之を修治す。村井道家をして役を董さしむ。元龜元年、皇居成る。殿堂門撫悉く舊制に依れり。又金を都民に散じ、其息を收めさせて、以て大內の經費に供し、品流を甄し滯淹を振ひ、衣冠、流落の者は往々舊に復せり。