名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 正徳寺で見せた二つの顔
其期に至り、秀龍は密に富田の町末に小家を借り、隱れ居て信長の樣子を覗ひけるに、信長其日の出立ち何つもに增りて異風なり。先づ茶筅髮に浴衣染の明衣を濶袖にして著し、熨斗付の刀脇差、共に長柄にて藁繩にて卷き太き苧繩の腕拔を付け、腰の廻りには燧袋瓢簞以下七つ八つ付け虎豹の皮にて四つ替はりに縫たる半袴を著し、太く逞き馬に乘て歩ませ、先へ弓銃の卒五百人、三間柄の朱鎗五百本を押し立、健なる歩走りの若黨七百餘人前後に歩ませたり。路次中の見物耳目を驚かせり。偖正德寺へ著て屏風の內に入り俄に引替へ髮を結び直し、偖何つ用意しけん、かちんの長袴を著し、人に知らせず、捨置きし小さ刀を成程きやしやに帶し、專ら古風貞實なる出立ちなり。家人等、其儀容を見て、偖て日比の風俗は態と戯氣を作られける、御心の知れぬ大將哉、と皆々驚きける。偖堂へ通り緣を徐々として上る時、齋藤の老臣堀田道空、春日丹後出迎ひ、早く御出よと會釋申したりけれども、知らぬ體にもてなし、諸侍の居ながれたる緣の上を通り、緣の柱に倚り掛りて座せり。偖秀龍は、町末より早く歸りけると見えて屏風の陰に居けるが、屏風を押退けて秀龍、進み出づ。信長夫にも構はず知らぬ顏して居たりしが、道空差寄りて是こそ、山城守殿にて御座候へと申す。そこにて信長左樣にてあるかと言はれ、敷居より內へ入りて挨拶ありて、其儘座敷に直りけり。其振舞殊の外をとなしき樣子なり。頓て秀龍と盃事あり、首尾殘る所なく仕舞て退出なり、秀龍も事濫き風情にて、又頓て參會仕るべしと言て、二十町計り見送り、互に暇乞して歸りけるに、美濃衆の鎗は短く、尾張衆の鎗は長ければ、自他交はるべき樣もなく、其上尾張衆に威勢を取られて、何にとやらんわるびれて、すご〱として歸りけるが、其歸路にて猪子兵助秀龍に向ひ、偖何にと見申しても信長は戯氣人にて候、如何思召れしやと言ふ。
新字:其期に至り、秀竜は密に富田の町末に小家を借り、隠れ居て信長の様子を覗ひけるに、信長其日の出立ち何つもに增りて異風なり。先づ茶筅髪に浴衣染の明衣を濶袖にして著し、熨斗付の刀脇差、共に長柄にて藁縄にて巻き太き苧縄の腕抜を付け、腰の廻りには燧袋瓢箪以下七つ八つ付け虎豹の皮にて四つ替はりに縫たる半袴を著し、太く逞き馬に乗て歩ませ、先へ弓銃の卒五百人、三間柄の朱鎗五百本を押し立、健なる歩走りの若党七百余人前後に歩ませたり。路次中の見物耳目を驚かせり。偖正徳寺へ著て屏風の内に入り俄に引替へ髪を結び直し、偖何つ用意しけん、かちんの長袴を著し、人に知らせず、捨置きし小さ刀を成程きやしやに帯し、専ら古風貞実なる出立ちなり。家人等、其儀容を見て、偖て日比の風俗は態と戯気を作られける、御心の知れぬ大将哉、と皆々驚きける。偖堂へ通り縁を徐々として上る時、斎藤の老臣堀田道空、春日丹後出迎ひ、早く御出よと会釈申したりけれども、知らぬ体にもてなし、諸侍の居ながれたる縁の上を通り、縁の柱に倚り掛りて座せり。偖秀竜は、町末より早く帰りけると見えて屏風の陰に居けるが、屏風を押退けて秀竜、進み出づ。信長夫にも構はず知らぬ顔して居たりしが、道空差寄りて是こそ、山城守殿にて御座候へと申す。そこにて信長左様にてあるかと言はれ、敷居より内へ入りて挨拶ありて、其儘座敷に直りけり。其振舞殊の外をとなしき様子なり。頓て秀竜と盃事あり、首尾残る所なく仕舞て退出なり、秀竜も事濫き風情にて、又頓て参会仕るべしと言て、二十町計り見送り、互に暇乞して帰りけるに、美濃衆の鎗は短く、尾張衆の鎗は長ければ、自他交はるべき様もなく、其上尾張衆に威勢を取られて、何にとやらんわるびれて、すご〱として帰りけるが、其帰路にて猪子兵助秀竜に向ひ、偖何にと見申しても信長は戯気人にて候、如何思召れしやと言ふ。
書き下し
其期に至り、秀龍は密に富田の町末に小家を借り、隱れ居て信長の樣子を覗ひけるに、信長其日の出立ち何つもに增りて異風なり。先づ茶筅髮に浴衣染の明衣を濶袖にして著し、熨斗付の刀脇差、共に長柄にて藁繩にて卷き太き苧繩の腕拔を付け、腰の廻りには燧袋瓢簞以下七つ八つ付け虎豹の皮にて四つ替はりに縫たる半袴を著し、太く逞き馬に乘て歩ませ、先へ弓銃の卒五百人、三間柄の朱鎗五百本を押し立、健なる歩走りの若黨七百餘人前後に歩ませたり。路次中の見物耳目を驚かせり。偖正德寺へ著て屏風の內に入り俄に引替へ髮を結び直し、偖何つ用意しけん、かちんの長袴を著し、人に知らせず、捨置きし小さ刀を成程きやしやに帶し、專ら古風貞實なる出立ちなり。家人等、其儀容を見て、偖て日比の風俗は態と戯氣を作られける、御心の知れぬ大將哉、と皆々驚きける。偖堂へ通り緣を徐々として上る時、齋藤の老臣堀田道空、春日丹後出迎ひ、早く御出よと會釋申したりけれども、知らぬ體にもてなし、諸侍の居ながれたる緣の上を通り、緣の柱に倚り掛りて座せり。偖秀龍は、町末より早く歸りけると見えて屏風の陰に居けるが、屏風を押退けて秀龍、進み出づ。信長夫にも構はず知らぬ顏して居たりしが、道空差寄りて是こそ、山城守殿にて御座候へと申す。そこにて信長左樣にてあるかと言はれ、敷居より內へ入りて挨拶ありて、其儘座敷に直りけり。其振舞殊の外をとなしき樣子なり。頓て秀龍と盃事あり、首尾殘る所なく仕舞て退出なり、秀龍も事濫き風情にて、又頓て參會仕るべしと言て、二十町計り見送り、互に暇乞して歸りけるに、美濃衆の鎗は短く、尾張衆の鎗は長ければ、自他交はるべき樣もなく、其上尾張衆に威勢を取られて、何にとやらんわるびれて、すご〱として歸りけるが、其歸路にて猪子兵助秀龍に向ひ、偖何にと見申しても信長は戯氣人にて候、如何思召れしやと言ふ。
現代語訳
その時になって、秀龍はひそかに富田の町はずれに小家を借りて隠れ、信長の様子をうかがったところ、信長のその日の出で立ちはいつもにも増して異風であった。まず茶筅髪に、浴衣染めの明衣を広袖にして着、熨斗付きの刀・脇差をどちらも長柄にして藁縄で巻き、太い苧縄の腕抜きを付け、腰の回りには火打ち袋や瓢箪など七つ八つを付け、虎・豹の皮で四つ替わりに縫った半袴をはき、太くたくましい馬に乗って歩ませ、先には弓・鉄砲の兵五百人、三間柄の朱槍五百本を押し立て、屈強な徒歩の若党七百余人を前後に歩かせた。道中の見物は耳目を驚かせた。さて正徳寺に着いて屏風の内に入り、にわかに装いを替え、髪を結い直し、いつの間に用意したのか、褐色の長袴を着け、人に知らせず、捨て置いた小さ刀をいかにもきゃしゃに帯び、もっぱら古風で礼儀正しい出で立ちであった。家人らはその儀容を見て、さては日ごろの風俗はわざと戯け者を装っていたのか、お心の知れぬ大将だと、皆々驚いた。さて堂へ通り、縁をゆったりと上るとき、斎藤の老臣堀田道空、春日丹後が出迎えて、早くお出でくださいと会釈したが、知らぬふうにもてなし、諸侍が居並ぶ縁の上を通り、縁の柱にもたれて座った。さて秀龍は町はずれから早く帰っていたと見えて屏風の陰にいたが、屏風を押しのけて進み出た。信長はそれにもかまわず知らぬ顔をしていたが、道空が近寄って、こちらこそ山城守殿でございますと申した。そこで信長は、そうであるかと言い、敷居より内へ入って挨拶し、そのまま座敷に座った。その振る舞いはことのほか大人しい様子であった。やがて秀龍と盃事があり、始終残るところなく済ませて退出し、秀龍も事が乱れぬ風情で、またやがて参会しようと言って、二十町ばかり見送り、互いに暇乞いして帰ったが、美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長いので、互いに交わりようもなく、その上尾張衆に威勢を取られて、何となく気後れして、すごすごと帰った。その帰路で猪子兵助が秀龍に向かい、さて何と見ても信長は戯け者でございます、どうお思いになりましたか、と言った。
解説

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