名将言行録 / 『名将言行録』山中幸盛 盗賊の頭が名を乞う
幸盛去らば放ち遣るべしとて、締を解き、心の儘に出行けと言ふ時、首領と見ゆる男、幸盛に向ひ某生れ落しよりの盜人にも候はず、只一日の命の過がたさに、斯く淺間敷業を爲すに候、偖盜みに入りしこと百餘度、大小の闘ひ七十餘合、未だ今夜の如き辛き目に逢ひしことを覺えず、抑〱御邊は誰人に座すにや、御名字こそ聞まほしけれ、然れども今某抔に向ひて名乘らせ給ふまじ、天晴御邊が何れの所にあれ、思ひ立給ふことあらん時、馳參るべき爲めにせめて印計りも知らせ給へと言へば、幸盛此奴何をか言ふ、此庵室の食客として世を過す我等が、何をか思ひ立つべき、疾く行けと言ひしかば、殘り惜氣に見返り〱出行きぬ。夫より老法師等も幸盛を彌賴母敷者に思ひ、實やかに交はりけるに、此事四方に聞えて、出雲浪人とあるより、山中鹿之助と云ふ人あらば、煩しとや思ひけん、彼庵室を立去りけり。
新字:幸盛去らば放ち遣るべしとて、締を解き、心の儘に出行けと言ふ時、首領と見ゆる男、幸盛に向ひ某生れ落しよりの盗人にも候はず、只一日の命の過がたさに、斯く浅間敷業を為すに候、偖盗みに入りしこと百余度、大小の闘ひ七十余合、未だ今夜の如き辛き目に逢ひしことを覚えず、抑〱御辺は誰人に座すにや、御名字こそ聞まほしけれ、然れども今某抔に向ひて名乗らせ給ふまじ、天晴御辺が何れの所にあれ、思ひ立給ふことあらん時、馳参るべき為めにせめて印計りも知らせ給へと言へば、幸盛此奴何をか言ふ、此庵室の食客として世を過す我等が、何をか思ひ立つべき、疾く行けと言ひしかば、残り惜気に見返り〱出行きぬ。夫より老法師等も幸盛を弥頼母敷者に思ひ、実やかに交はりけるに、此事四方に聞えて、出雲浪人とあるより、山中鹿之助と云ふ人あらば、煩しとや思ひけん、彼庵室を立去りけり。
書き下し
幸盛去らば放ち遣るべしとて、締を解き、心の儘に出行けと言ふ時、首領と見ゆる男、幸盛に向ひ某生れ落しよりの盜人にも候はず、只一日の命の過がたさに、斯く淺間敷業を爲すに候、偖盜みに入りしこと百餘度、大小の闘ひ七十餘合、未だ今夜の如き辛き目に逢ひしことを覺えず、抑〱御邊は誰人に座すにや、御名字こそ聞まほしけれ、然れども今某抔に向ひて名乘らせ給ふまじ、天晴御邊が何れの所にあれ、思ひ立給ふことあらん時、馳參るべき爲めにせめて印計りも知らせ給へと言へば、幸盛此奴何をか言ふ、此庵室の食客として世を過す我等が、何をか思ひ立つべき、疾く行けと言ひしかば、殘り惜氣に見返り〱出行きぬ。夫より老法師等も幸盛を彌賴母敷者に思ひ、實やかに交はりけるに、此事四方に聞えて、出雲浪人とあるより、山中鹿之助と云ふ人あらば、煩しとや思ひけん、彼庵室を立去りけり。
現代語訳
幸盛は「それなら放してやろう」と言って、縄を解き、「思うままに出て行け」と言うと、首領と見える男は幸盛に向かって言った。「私は生まれながらの盗人ではありません。ただ一日の命をつなぎ難いために、こうした浅ましい業をしているのです。盗みに入ったことは百余度、大小の闘いは七十余合ありましたが、いまだ今夜のようなつらい目に遭ったことを覚えません。そもそもあなたはどなたでしょうか。お名字をぜひ聞きたいものです。しかし今、私どもに向かって名乗られることはないでしょう。ならば、あなたがどこにおいでになろうと、何か思い立たれたときには馳せ参じるために、せめて印だけでも教えてください」と言うと、幸盛は「こいつ何を言う。この庵室の食客として世を過ごす我らが、何を思い立つことがあるか。早く行け」と言ったので、残り惜しげに振り返り振り返り出て行った。それから老法師らも幸盛をいよいよ頼もしい者と思い、まめやかに付き合ったが、この事が四方に聞こえて、「出雲の浪人で、山中鹿之助という人がいるらしい」と噂されると、煩わしいと思ったのか、あの庵室を立ち去った。
解説

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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 落とし穴で野に伏す賊を捕らえる立入ることさへ許さぬ者に、粥にても飯にても饗することやある、疾く出でよ、出ずば爲す樣ありと言ふ儘に、庭の立石の五六尺許りもあるを、つと引起し、尻掛けて白眼み居たり、武者共初の勢に似もせず、鳴呼過てり免し給へ、餘りに強く勞れて庵室を見違ひてけり、去らばとて皆走り出で行方を知らず。老法師を初め喜ぶこと限なし。然るに其夜彼武者庵室の前後より、二た手に分れて押入りたり。幸盛は兼ねて斯くあるべし、と思ひ寐ずして居たりし程に、法師等をば一間の所に忍ばせ、我身は戸口の内の床板引放ち、込み入れば落る樣に構へて待居たれば、表より寄せし者、念なふ陷穽に込み落されて、足手をもがくをば見ぬ由にて、上に床板敷並べ壓を置き、偖裏手へ向て見れば窓の戸を引放ち、そこより入らんと構たり。幸盛之を見て窓の陰に副ひ身を潛め伺ひ居たり。寄手は斯くと知らず、小高き窓に手を打掛け延び上り飛び下る所へ、締を引掛けて傍の柱に縛り付け、都て六人まで生捕りぬ。又表へ立出で床板の壓を引退くると裏手へ廻はりし者の援け來りし樣にもてなしゝかば、床の下よりおめ〱と匍匐出るを、此方へ來よと言ふ儘に、締を頸へ引掛け八人皆搦捕て、偖一人々々之を糺問するに、此邊の野武士にて引剥强盜して世を渡る者なれば、一々に首を刎べけれども、庵室の佛も照覽座すに、情なく命を斷べきにあらずと思ひ返し、主の老法師に如何に爲すべきやと問へば、免し給へと手を摺て言ふ。
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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 巡礼姿で諸国を見る○九年十一月、尼子氏亡びし時、幸盛落魄せしが、主家を再び興さんと欲し、順禮の姿と成り東國に赴き、武田、上杉、北條抔の弓箭の風格を見、北國に至り朝倉等の家風を見て、時節をぞ待居たる〱。或時近江番場驛に至りけるに、日暮には及び、雨は降り出で宿借す者もなし、如何がはせんと、一樹の蔭に佇めば、爰にも早く老法師と、小沙彌二人雨を避て休らひ居たり。幸盛、此時順禮の出立なれば、老法師曰く、修行者は一人旅にや、雨は降り出たり、行く先急がれずば、今夜は我庵室に泊り、旅の勞を休め給へと言ふ。幸盛深く喜び、兎角御詞に從ひ候べしと言ひ、老法師に從ひ庵室に至りぬ。内には所化、下部二三人居たり。頓て幸盛を請じ、抑〱御身は何れの所より何方を當てに立出られしや、本國は何國ぞと問へば、幸盛曰く、我身人數ならねば、名乘るとも知召まじければ、態と告け申さず、國は出雲にて相應の奉公せばやと存立ちて、國々を廻はり候なりと言ふ。老法師頷て何樣尋常人とは見えざりければ、然らば、爰に逗留して美濃、尾張の大將等の家に緣を求められよと、懇なりしかば、幸盛渡りに舟得し心地して、一日二日過す中、誰とは知らず物具したる武士十餘人、庵室の門を打敲き、主に物言はんとありけるにより、所化一人立出何事と問ふ。其武者曰ふ樣、是は尾張の何某の手のものなるが、某の所の軍場にて働き餘りに息疲れ、且つは飯のほしさに音信るゝなり、何れの所にもあれ、暫し休息させ粥にもあれ飯にもあれ、出して饗せよと呼はりながらつと込み入りたり。庵室の者皆戰慄して音もせず。幸盛立向ひ汝等は戰の場を逃たる者か、左もなくば盜人なるべし、此庵室は桑門の隱家にして、軍勢甲乙人の立入るべき所ならぬ由、美濃、尾張の武者は能く知れり。
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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 母の教えと仲間への情○幸盛、幼にして父を失ひ、母に鞠養せらる。家極めて貧かりければ、母麻を種ゑ、其を布に織り茜の裏を付け、布子に數多拵へ幸盛に與へ、自分は百結の垢衣を着たり。尼子家に近習の者とて三百人許りありけるが、皆人の二男三男共にて、何れも貧しき者共なれば、常に交會の時彼布子を與ふるとは言はず、只自然に彼等が衣裳に着替させ、或時は朋友を五人十人招き集め、吾家に宿せしめ、朝夕の饗をものしける故に、人皆其志を感じ何つとなく幸盛が手に付て、爰にては山中が手の某と名寄り、彼所にては鹿之助が手の某と名乘りける間、其名敵陣に揚しく、武威諸人に超過せり。母常に曰く、汝に相從ふ人々を夜軍抔あらん時捨殺し候な、又利あらん時も同じ樣にあれよ、樂しきことありとも、人々と共に樂み候へと敎へしかば、幸盛其言を忘れず、深く嗜みし故、朋友も賴母敷人なりと思ひ親附せり。
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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 鹿之助の名の由来鹿之助と稱す。尼子譜第の臣なり。天正六年七月二日、害に遭ふ、年三十四。 ○幸盛、幼名を甚次郎と云ふ。甫め生るゝ數月、四五歳の小兒の如く二三歳なる比、勇智群に超え、遊戲尋常の兒に異なり、八歳の時人を討てり、十歳の比より弓馬の道を學び、十三歳の時手柄なる太刀打し、能き首取てけり。長ずるに從ひ器量世に超え心剛に慮深くして人を撫するに恩を以てす。十六歳の春胄の立物に半月をしたりけるが今日より三十日の内に、武勇の譽れを取り候樣にと。三日月に立願せり。斯る所に尼子右衞門督義久、伯耆小高の山名と戰ひし時、山中甚次郎と名乗つて菊池晋八を討てけり。此菊池は因伯二州に隱れなき勇士なり。是よりして三日月を一世の間信仰せしとぞ。 ○幸盛の兄を甚太郎と曰ふ。常に鹿之雙角長六尺なるを胄額に揷めり。後に之を幸盛に與ふ。幸盛身體壯大冑して陣に臨むに、人其魏然たるを見て輙ち讋服す、依て鹿之助と稱す。
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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 戦場の実感と首の数○明智光秀の臣、野々口丹波、幸盛に逢ひ、我等不肖と雖も、時の仕合に依て男役を勤めたること三度なり、然れども敵を突留め、首を取て後忽然と夢の覺めたるが如し、其場に於て目に見る所朦朧として、首尾分明ならず、然るに只一度働きせし者も、敵の働き自分の稼ぎ審に語る者あり、生得の大勇にやと問ければ、幸盛大に感じ、貴殿は僞りなき人哉、詞を飾り虚名を取る者踏しめたる所少きものなり、我等首供養したること既に二度なり、初め鎗を合はせ首を取ること四五度の間は、貴殿の語らるゝ所に違はず、七八度に及びて、夜の明けたる如く、十度に餘りて常に違はず、敵の内冑突能く見え、小兒の戲れに等しく、杖を以ても打倒すべし、貴殿未だ壯年なり、首數重ならば、我等が申所を思ひ合はさるべしと言へり。 ○野々口丹波、幸盛が旅館に來て、陪臣の身として申は恐入て候へども、哀れ茅屋の中に駕を枉られ給はゞ何事の幸か之に如んと言ふ。幸盛過分に候、參るべしと約す。斯る所に光秀、今日風呂を燒き候間來られよと言ければ、幸盛御家來野々口に先約致し候と言て打笑ふ。光秀も又共に笑て鴈一羽、鮭一尾を以て山中を饗應すべしとて野々口に與へり。
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名将言行録・『名将言行録』山中幸盛 一人の敵を誇らず○永祿五年七月、毛利元就六萬餘人を引卒し、富田へ追る。先づ島根三郡を伐り從へ、本陣に定め、夏は麥を刈り、秋は稻を刈り拯し、所所に亂入す。初めの程は義久出向ひけれども、元就一向取合はざれば富田の城へ引入りける。幸盛只一人民屋へ立入り、只今人塚を築て見せんとて休息し居たりける所に、毛利勢三四十騎追掛けたり。幸盛、民屋より切て出で、一番に乘來る兵を切て落しゝかば、次なる兵馬を下り立て打向ひしを、幸盛又打ければ、微塵に成て谷底へ轉びけり。續き來る勢三十餘人下り立ち、幸盛を目指して切掛りけるを、幸盛、縱橫奮擊して十六七人切伏せしかば、殘る勢幸盛一人に切立られて引たりけり。幸盛も小家へ立入り飯はなきかと問ひしに、老尼色異なる飯を椎の葉に盛り出しければ、心あるよなと感じ、喫し終て山傳ひに富田へぞ歸りけり。益田越中守藤包の臣に、品川大膳亮と云ふ者あり、勇猛を以て自負し、幸盛が屢々の勇功ありしこと隱れなければ、之を討て武名を得んと思ひ、鹿を從へるものは、狼ならんとて、狼之助勝盛と改め、或日望みて幸盛と兩陣の間にて一騎合の勝負せしが、竟に幸盛の爲めに討れけり。世人大に之を稱揚す。幸盛哂て曰く、是一人の敵なり、奚ぞ稱美するに足らんと。