甲陽軍鑑 / 品第十三
是れに罷り在り御前にて心ばせを仕りたけれども、それは兩上杉を一度に討取りたるより、今夜の行を城內へあぶなげもなくしらせ申すか、屋形の御爲にはましかと存候とて、能き馬にのつて舍人をもつれず、河越城内へ何の造作もなく敵のやうにたばかりて乘り籠む、氏康公寵愛の若衆なれば一入名残りをおしみ給ふもことわりなり、さても其夜の夜半に合戰ありて、氏康公伐りかち給ふ、上杉家悉くしまけ敗軍して、
新字:是れに罷り在り御前にて心ばせを仕りたけれども、それは両上杉を一度に討取りたるより、今夜の行を城内へあぶなげもなくしらせ申すか、屋形の御為にはましかと存候とて、能き馬にのつて舎人をもつれず、河越城内へ何の造作もなく敵のやうにたばかりて乗り籠む、氏康公寵愛の若衆なれば一入名残りをおしみ給ふもことわりなり、さても其夜の夜半に合戦ありて、氏康公伐りかち給ふ、上杉家悉くしまけ敗軍して、
書き下し
是れに罷り在り御前にて心ばせを仕りたけれども、それは両上杉を一度に討取りたるより、今夜の行を城内へあぶなげもなくしらせ申すか、屋形の御為にはましかと存候とて、能き馬にのつて舎人をもつれず、河越城内へ何の造作もなく敵のやうにたばかりて乗り籠む、氏康公寵愛の若衆なれば一入名残りをおしみ給ふもことわりなり、さても其夜の夜半に合戦ありて、氏康公伐りかち給ふ、上杉家悉くしまけ敗軍して、
現代語訳
ここにおりまして御前で心ばせをいたしたいのですが、それは両上杉を一度に討ち取るよりも、今夜の行動を城内へ危なげなく知らせ申すほうが、屋形の御ためにはまさるかと存じます、と言って、よい馬に乗って舎人も連れず、河越城内へ何の造作もなく、敵のように謀って乗り込む。氏康公寵愛の若衆なので、ひとしお名残を惜しまれるのも道理である。さてもその夜の夜半に合戦があって、氏康公は伐り勝ちなさる。上杉家はことごとく負けて敗軍して、
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十二中にも河越の夜軍には、両上杉殿八万の人数を氏康公八千にて伐かち、氏康手にかけ十四人長刀をもつてきりおとし給ふ、ケ様の手抦故氏康卅七歳と申に、天文二十年辛亥に、上杉殿を追くづし、北条氏康おほき成勝と成て、則ち上杉家の藤田右衛門の助武蔵の天神山に城あり、此者を始め小幡·三河·成田等氏康方に成てより、上杉殿の家老悉く心かはり、終に上杉殿を追出す、上杉殿御曹司竜若殿と申て十三に成り給ふを、六人の乳母の子共談合して、いざや此若を土産にして北条殿へ罷出んとて、氏康公へ竜若殿を具足し申し、小番衆の神尾と申す侍に申し付けられ、彼の竜若殿の頸をきり奉つる、不思儀なり神尾今まで一一代三病をわづらう氏康にて小番衆信玄家にて近習のことなり、
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『甲陽軍鑑』品第十三両上杉殿八万あまりの着到を記す、北条家にて実否一定の合戦なれば、此方には氏康が罷在、合戦は疑べからず、さありて城をよくもたねば後詰はならぬ者なり、後詰ならねば運の合戦は仕がたし、氏康ほどの者こもらせてこそとて、北条左衛門太夫を河越にこめらるゝ、扨て両管領旗本は武蔵の柏原と云ふ所に両上杉なから同座あり、八万余りの人数をもつて河越を取りまく、氏康衆にはかり事ありて四度目に疑かひを散じて、合戦と定めらるゝ、敵大軍なれば旗本を伐りくづすとも、さき衆はまきつめべし、必ず城よりつゐて出べからずと云ふ儀を城内へしらせ度と宣いければ、
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『甲陽軍鑑』品第十三北条左衛門太夫か弟くしま弁千世とて、其年十八歳に成りつるが、氏康へ申上るは、是れは大事の御使なり、書状をこし給はゝ道にてとらへられ今夜の合戦なるまじ、今夜合戦なくして又いつの世に大敵をよき塲所へ曳き請け給はん、十が九ツあらはるゝは必定よ、顕はるゝ事あやうしとて、口上に仰せ付けらるゝに付ては、拷問せられて落つべし、それは状にて顕はるゝとも、問ひ落されて顕はるゝも道理は一ツ所へ参り候、乍恐弁千世を指越し給はゝ被捕て糺明にあひ、縦へば首をば塞はどにすらるゝとも落ち申す事有るまじ、
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『甲陽軍鑑』品第十三されども氏康少敵なり、殊に夜軍なれば両上杉なから討ち死なく、則政公平井へ帰陣なるを武略する、本間江州は今夜夜軍の目あかしなりと名乗て、大道寺と出合ふ本間江州をうつて此さし物を、北条家のあらん限りはさし給へと申して、うたるゝ時のいひ置きなり、敵なれども大剛の者の詞なれば今にいたるまで、北条家の大道寺九ッ挑灯を金にしてもたする、是によつてこまといは北条家よりはじまる、其後上杉殿·本間江州·井又左近か申したる事あたりたりと、則政公宣へば諸人又両人をほむる、さてすがの大膳·上原兵庫則政公よりさきへ北て帰れども、能き人は討死する、残る者は皆逃たる侍なれば別にあしきさたもなし、此合戦天文七年戊戌七月十五日の夜なり、山の内管領·上杉則政公臆病にまします故、
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『甲陽軍鑑』品第六かやうに辱を知り給ふたけき大将にてましませばこそ、其後氏康公二十四歳の時河越の夜軍、敵は両管領人数八万計り、氏康人数八千にて氏康討ち勝ち給ふ、是に付て種々の謀あり、此合戦と信長義元の合戦と近代まれ成る戦ひ也一武田信玄晴信公十三歳の御時駿州義元の御前は信玄の姉子にておはします、
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『甲陽軍鑑』品第十三殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば、北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出されば、めつぽうに究まりたり、其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが、武辺のこと一円心がけず、たど歌斗りよみて罷在り、扨は男色二置するなにとのめばな立ちごと述定。男女のおいやけを大盛代々年では武辺仕さうなる侍なく候処に、当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと、一段聞へぬ儀なり、又本間江州·井又左近両人武略をよく仕たるとのこと、彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ、上杉家の被官よりはらいさき者に何の機遣にて武略なさるべき、当家の各おかしきことを申され候、
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