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明訓一班抄抄録 / 奢侈を禁ずべき事・家康の辞退と廟所の造営

增上寺におゐて御法事等之儀も駿河殿御差圖被成候由、御父子樣共還御被遊候、御廟所御靈屋等御造營之儀共駿河殿御普請掛りと被成候に付、思召儘の結構に御普請被成候となり、同九年正月廿四日台德院殿御他界之節御靈屋御造營之儀崇源院樣御靈屋より見增候樣仕立可申旨上意に付、只今の如く御佛殿出來候となり、此御佛殿と見合候得ば日光山に御立被遊候東照宮御社は殊の外手淺に相見候に付、惣奉行之儀は秋元但馬守へ被仰付候刻、御宮御修復候付て御入用御厭ひ無之間隨分之手を込、台德院樣御靈屋に見增候樣にと被仰付候に付、右御修復御入用七拾萬兩餘の由、右之次第に有之候得共、御代々御魂舍の莊嚴は其始駿河大納言殿の物數寄より起りたるよし也、元和二年三月十七日京都より臨時之爲、勅使廣橋大納言兼勝卿、三條大納言實條卿、參向之仔細は前將軍太政大臣之極官可被任との宣旨を相述、大御所御對席有し、御辭退の御心入と相見へ拜伏し、御式臺嚴重にして御請被聞、尤當日は別て御機嫌相勝れ不給故かと各察しける、參府之大小名各惣出仕有、極官拜賀の御詮儀如何と、本多上野介に伺といへども、侯伯への御對顏もなし、勅使退席後御寢所に被爲入、御沙汰不被仰出、只御饗應疎略ならざる樣にと御下知有計故、上野介罷出誠に御當家の御名譽是に不過と奉悅ける、公御息を繼給ひ無勿體、此度蒙勅使を冥加之程も恐惶あり、抑武家太政大臣の拜賀は北山鹿園院義滿計大臣として拜任有し事は平淸盛前證をおしての事と聞給ふ、是義滿之疎略也、淸盛相國たるは後白河院の落胤に紛れなき故也、官に文武の差別有、文官は相國を限とし武官は近衞左右之大將を先達とせり、太閤秀吉愚昧にして我儘に慕り、押て關白の職に補せられし事前代未聞なり、武家に三公九卿の拜任有事、皇境の御威光是より衰漸するに非や、家康江府之將軍さへ憚あれ共叙慮默止しがたし、

新字:增上寺におゐて御法事等之儀も駿河殿御差図被成候由、御父子様共還御被遊候、御廟所御霊屋等御造営之儀共駿河殿御普請掛りと被成候に付、思召儘の結構に御普請被成候となり、同九年正月廿四日台徳院殿御他界之節御霊屋御造営之儀崇源院様御霊屋より見增候様仕立可申旨上意に付、只今の如く御仏殿出来候となり、此御仏殿と見合候得ば日光山に御立被遊候東照宮御社は殊の外手浅に相見候に付、惣奉行之儀は秋元但馬守へ被仰付候刻、御宮御修復候付て御入用御厭ひ無之間随分之手を込、台徳院様御霊屋に見增候様にと被仰付候に付、右御修復御入用七拾万両余の由、右之次第に有之候得共、御代々御魂舎の荘厳は其始駿河大納言殿の物数寄より起りたるよし也、元和二年三月十七日京都より臨時之為、勅使広橋大納言兼勝卿、三条大納言実条卿、参向之仔細は前将軍太政大臣之極官可被任との宣旨を相述、大御所御対席有し、御辞退の御心入と相見へ拝伏し、御式台厳重にして御請被聞、尤当日は別て御機嫌相勝れ不給故かと各察しける、参府之大小名各惣出仕有、極官拝賀の御詮儀如何と、本多上野介に伺といへども、侯伯への御対顔もなし、勅使退席後御寝所に被為入、御沙汰不被仰出、只御饗応疎略ならざる様にと御下知有計故、上野介罷出誠に御当家の御名誉是に不過と奉悦ける、公御息を継給ひ無勿体、此度蒙勅使を冥加之程も恐惶あり、抑武家太政大臣の拝賀は北山鹿園院義満計大臣として拝任有し事は平清盛前証をおしての事と聞給ふ、是義満之疎略也、清盛相国たるは後白河院の落胤に紛れなき故也、官に文武の差別有、文官は相国を限とし武官は近衛左右之大将を先達とせり、太閤秀吉愚昧にして我儘に慕り、押て関白の職に補せられし事前代未聞なり、武家に三公九卿の拝任有事、皇境の御威光是より衰漸するに非や、家康江府之将軍さへ憚あれ共叙慮黙止しがたし、

書き下し

增上寺におゐて御法事等之儀も駿河殿御差圖被成候由、御父子樣共還御被遊候、御廟所御靈屋等御造營之儀共駿河殿御普請掛りと被成候に付、思召儘の結構に御普請被成候となり、同九年正月廿四日台德院殿御他界之節御靈屋御造營之儀崇源院樣御靈屋より見增候樣仕立可申旨上意に付、只今の如く御佛殿出來候となり、此御佛殿と見合候得ば日光山に御立被遊候東照宮御社は殊の外手淺に相見候に付、惣奉行之儀は秋元但馬守へ被仰付候刻、御宮御修復候付て御入用御厭ひ無之間隨分之手を込、台德院樣御靈屋に見增候樣にと被仰付候に付、右御修復御入用七拾萬兩餘の由、右之次第に有之候得共、御代々御魂舍の莊嚴は其始駿河大納言殿の物數寄より起りたるよし也、元和二年三月十七日京都より臨時之爲、勅使廣橋大納言兼勝卿、三條大納言實條卿、參向之仔細は前將軍太政大臣之極官可被任との宣旨を相述、大御所御對席有し、御辭退の御心入と相見へ拜伏し、御式臺嚴重にして御請被聞、尤當日は別て御機嫌相勝れ不給故かと各察しける、參府之大小名各惣出仕有、極官拜賀の御詮儀如何と、本多上野介に伺といへども、侯伯への御對顏もなし、勅使退席後御寢所に被爲入、御沙汰不被仰出、只御饗應疎略ならざる樣にと御下知有計故、上野介罷出誠に御當家の御名譽是に不過と奉悅ける、公御息を繼給ひ無勿體、此度蒙勅使を冥加之程も恐惶あり、抑武家太政大臣の拜賀は北山鹿園院義滿計大臣として拜任有し事は平淸盛前證をおしての事と聞給ふ、是義滿之疎略也、淸盛相國たるは後白河院の落胤に紛れなき故也、官に文武の差別有、文官は相國を限とし武官は近衞左右之大將を先達とせり、太閤秀吉愚昧にして我儘に慕り、押て關白の職に補せられし事前代未聞なり、武家に三公九卿の拜任有事、皇境の御威光是より衰漸するに非や、家康江府之將軍さへ憚あれ共叙慮默止しがたし、

現代語訳

増上寺での法事などの儀も、駿河殿(駿河大納言)が差図なさったとのことで、御父子ともご還御されました。御廟所や御霊屋などの造営も、駿河殿が御普請掛りとなられたので、思し召しのままに結構にご普請なされたとのことです。同九年正月二十四日、台徳院殿(秀忠)がご他界の折、御霊屋の造営は崇源院様の御霊屋より見まさるように仕立てよとの上意で、ただ今のような御仏殿ができたとのことです。この御仏殿と見比べると、日光山にご建立の東照宮の御社は殊の外手浅に見えたため、惣奉行を秋元但馬守へ仰せつけられた折、「お宮の修復について、費用は厭わず、随分手を込めて、台徳院様の御霊屋にまさるように」と仰せつけられたので、この修復の費用は七十万両余の由です。このような次第ですが、御代々の魂舎の荘厳は、その始めは駿河大納言殿の物好みから起こったとのことです。元和二年三月十七日、京都から臨時のため、勅使として広橋大納言兼勝卿・三条大納言実条卿が参向されました。その仔細は、前将軍(家康)を太政大臣の極官に任ずべしとの宣旨を述べるものでした。大御所はご対席になり、ご辞退のご心入れと見え、拝伏して、御式台を厳重にして御請けをお聞きになりましたが、当日はとりわけご機嫌がすぐれなかったからかと、皆が察しました。参府の大小名は各総出仕しました。極官拝賀の詮議はどうなるかと本多上野介にうかがいましたが、侯伯への御対顔もありません。勅使が退席されたのち御寝所に入られ、お沙汰を仰せ出されず、ただ御饗応は疎略にならぬようにとのお下知があるばかりで、上野介が罷り出て、「誠にご当家の名誉これに過ぎるものなし」と悦びました。公(家康)は息をついで、「もったいないことだ。この度勅使を蒙ったことの冥加のほども恐れ入る。そもそも、武家の太政大臣の拝賀は、北山鹿園院義満だけが大臣として任官されたことで、平清盛の前例を押してのことと聞いている。これは義満の疎略だ。清盛が相国になったのは、後白河院の落胤に紛れもないためだ。官には文武の差別がある。文官は相国を限りとし、武官は近衛左右の大将を先達とした。太閤秀吉は愚昧で我儘にふるまい、押して関白の職に補せられたことは前代未聞だ。武家に三公九卿の任官があることは、皇境の御威光がこれより衰えていくのではないか。家康は江府の将軍でさえ憚りがあるのに、叙慮(天皇のお考え)を黙止しがたい。

解説

この章には二つの話が並びます。ひとつは、家康が質素を望んで廟所を軽くせよと遺言したのに、後の世は祖先をしのぐ豪華な霊廟を競って造ったという経緯です。もうひとつは、家康が朝廷の最高の官を受けるべきか、分を守るべきかを慎重に考える場面です。現代の管理職にとっては、創業者や前任者の遺した理念が、後継者の見栄や競争で薄れていくことへの警告になります。肩書や称号を与えられた時こそ、自分の分と責任を冷静に見直す姿勢が問われます。

この章句が説くこと

明訓一班抄徳川斉昭家康廟所太政大臣辞退

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