金剛経 / 『金剛経』いつもの日常から始まる経
如是我聞。一時、佛在舍衛國祇樹給孤獨園、與大比丘眾千二百五十人俱。爾時、世尊食時、著衣持缽、入舍衛大城乞食。於其城中、次第乞已、還至本處。飯食訖、收衣缽、洗足已、敷座而坐。
新字:如是我聞。一時、仏在舎衛国祇樹給孤独園、与大比丘衆千二百五十人倶。爾時、世尊食時、著衣持鉢、入舎衛大城乞食。於其城中、次第乞已、還至本処。飯食訖、収衣鉢、洗足已、敷座而坐。
書き下し
是くの如く我聞く。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なり。爾の時、世尊、食時に、衣を著け鉢を持ち、舎衛の大城に入りて乞食す。其の城中に於いて、次第に乞い已りて、本処に還り至る。飯食訖りて、衣鉢を収め、足を洗い已りて、座を敷きて坐す。
現代語訳
このように私は聞きました。あるとき、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられ、千二百五十人の大比丘たちとご一緒でした。その時、世尊は食事の時刻になると、衣をつけ鉢を持って、舎衛の大きな城に入り、托鉢をなさいました。城の中を順番に托鉢し終えると、もとの場所に帰られました。食事を終えると、衣と鉢を片づけ、足を洗い、座を設けて坐られました。
解説
経の幕開けは、説法ではなく、托鉢に出て帰り、食事をして足を洗い、坐るまでの日常の描写です。『金剛般若波羅蜜経』は釈尊と長老の須菩提の問答の形をとり、鳩摩羅什が五世紀初めに漢訳したものです。三十二に分ける区分と見出しは梁の昭明太子が付けたと伝わり、これは第一分にあたります。深い教えの入り口に、特別なことをしない普通の一日を置いている点が印象的です。仕事でも、大きな方針や理念は、朝の挨拶や段取りといった平凡な動作の積み重ねの上に立っています。足元の日課をていねいに行うことが、すべての出発点だと読めます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
如是我聞祇樹給孤独園乞食日常坐
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