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講孟余話 / 盡心下 第三十六章

膾炙所同也、羊棗所獨也、諱名不諱姓、姓所同也、名所獨也、羊棗ト膾炙、姓ト名、一ハ同ク、一ハ獨也、同シキヲ食シテ独ヲ食セス、同シキヲ諱マスシテ独ヲ諱ム孟子ノ道ヲ論スル精密ト云ヘシ、請フ其詳ヲ敷衍セン、道ハ天下公共ノ道ニシテ所謂同ナリ、国体ハ一国ノ体ニシテ所謂獨ナリ、君臣父子夫婦長幼朋友、五者天下ノ同也、皇朝君臣ノ義万国ニ卓越スル如キハ、一国ノ獨ナリ、匈奴ノ壯者ハ肥美ヲ食ヒ、老者ハ其餘ヲ飮食シ、壯健ヲ貴ヒ、老弱ヲ賤メ、父死スレハ其後母ヲ妻トシ、兄弟死スレハ皆其妻ヲ取リ是ヲ妻トスル如キハ、亦其一国ノ独也、名ヲ諱ミテ羊棗ヲ食ハサルノ義ヲ以テ是ヲ推スニ、国体ノ最モ重キコト知ルヘシ、然トモ道ハ惣名也、故ニ大小精粗皆是ヲ道ト云、然レハ国体モ亦道也、国俗ト国体トハ自ラ別ナリ、大氏国自然ノ俗アリ、聖人起テ其善ヲ采リ、其惡ヲ濯ヒ、一箇ノ体格ヲ成ス時ハ、是ヲ国体ト云、匈奴ノ事ノ如キハ、国俗ノ陋惡ナルモノナリ、今皇国君臣ノ体ニ比シテ云フハ、頗ル不倫ニ似タリ、然トモ是特ニ獨同ノ別ヲ顯スノミ、况ヤ体俗自ラ別ナリト云ヘトモ、其原亦一致ナルヲ以テナリ、

新字:膾炙所同也、羊棗所独也、諱名不諱姓、姓所同也、名所独也、羊棗ト膾炙、姓ト名、一ハ同ク、一ハ独也、同シキヲ食シテ独ヲ食セス、同シキヲ諱マスシテ独ヲ諱ム孟子ノ道ヲ論スル精密ト云ヘシ、請フ其詳ヲ敷衍セン、道ハ天下公共ノ道ニシテ所謂同ナリ、国体ハ一国ノ体ニシテ所謂独ナリ、君臣父子夫婦長幼朋友、五者天下ノ同也、皇朝君臣ノ義万国ニ卓越スル如キハ、一国ノ独ナリ、匈奴ノ壮者ハ肥美ヲ食ヒ、老者ハ其余ヲ飲食シ、壮健ヲ貴ヒ、老弱ヲ賤メ、父死スレハ其後母ヲ妻トシ、兄弟死スレハ皆其妻ヲ取リ是ヲ妻トスル如キハ、亦其一国ノ独也、名ヲ諱ミテ羊棗ヲ食ハサルノ義ヲ以テ是ヲ推スニ、国体ノ最モ重キコト知ルヘシ、然トモ道ハ惣名也、故ニ大小精粗皆是ヲ道ト云、然レハ国体モ亦道也、国俗ト国体トハ自ラ別ナリ、大氏国自然ノ俗アリ、聖人起テ其善ヲ采リ、其悪ヲ濯ヒ、一箇ノ体格ヲ成ス時ハ、是ヲ国体ト云、匈奴ノ事ノ如キハ、国俗ノ陋悪ナルモノナリ、今皇国君臣ノ体ニ比シテ云フハ、頗ル不倫ニ似タリ、然トモ是特ニ独同ノ別ヲ顕スノミ、況ヤ体俗自ラ別ナリト云ヘトモ、其原亦一致ナルヲ以テナリ、

書き下し

「膾炙は同じき所なり、羊棗は独りする所なり。名を諱みて姓を諱まず、姓は同じき所なり、名は独りする所なり」。羊棗と膾炙、姓と名、一は同じく、一は独りなり。同じきを食して独りを食せず、同じきを諱まずして独りを諱む、孟子の道を論ずる精密と云ふべし。請ふ其の詳を敷衍せん。道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友、五者は天下の同なり。皇朝君臣の義万国に卓越する如きは、一国の独なり。匈奴の壮者は肥美を食ひ、老者は其の余を飲食し、壮健を貴び、老弱を賤しみ、父死すれば其の後母を妻とし、兄弟死すれば皆其の妻を取りて是れを妻とする如きは、亦其の一国の独なり。名を諱みて羊棗を食はざるの義を以て是れを推すに、国体の最も重きこと知るべし。然れども道は総名なり、故に大小精粗皆是れを道と云ふ。然れば国体も亦道なり。国俗と国体とは自ら別なり。大氐国に自然の俗あり、聖人起りて其の善を采り、其の悪を濯ひ、一箇の体格を成す時は、是れを国体と云ふ。匈奴の事の如きは、国俗の陋悪なるものなり。今皇国君臣の体に比して云ふは、頗る不倫に似たり。然れども是れ特に独同の別を顕すのみ。況んや体俗自ら別なりと云へども、其の原亦一致なるを以てなり。

現代語訳

「なますや焼き肉は誰もが好むものだが、羊棗は曾晳一人が好んだものである。名は避けて言わないが姓は避けない。姓は一族が同じくするもの、名はその人一人のものだからである」。羊棗と膾炙、姓と名、一方は皆に同じく、一方はその人一人のものである。皆に同じものは食べても一人のものは食べず、皆に同じものは避けずに一人のものは避ける。孟子の道の論じ方は精密というべきだ。その詳しいところを押し広げてみたい。道は天下に共通の道で、いわゆる「同」である。国体は一国の体で、いわゆる「独」である。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の五つは天下の「同」である。わが国の君臣の義が万国に抜きん出ているようなことは、一国の「独」である。匈奴の若者がうまいものを食べ、老人がその残りを飲み食いし、壮健な者を尊び老弱な者を卑しみ、父が死ねば継母を妻とし、兄弟が死ねばその妻をめとって妻とするようなことも、またその一国の「独」である。名を避けて羊棗を食べなかったという義から推せば、国体がもっとも重いことがわかる。しかし道は総称であるから、大小・精粗すべてを道という。だから国体もまた道である。国の風俗と国体とはおのずから別である。およそ国には自然の風俗があり、聖人が起こってその善を採り、その悪を洗い流して一つの体格を作り上げたとき、これを国体という。匈奴の例は、国の風俗の卑しく悪いものである。今それをわが国の君臣の体と並べて言うのは、ずいぶん不釣り合いに見える。しかしこれは特に「独」と「同」の区別を示すためにすぎない。まして体と俗はおのずから別であるとはいえ、その源はまた一つだからである。

解説

孟子は、曾子が父の好物の羊棗を食べなかったのは、それが父一人のものだったからだと説明し、名は避けても姓は避けないのと同じ理屈だと述べました。松陰はこの「同」と「独」の区別を国家に当てはめます。五倫は天下共通の道だが、それぞれの国には独自の国体がある。国の自然な風俗から善を採り悪を除いて形づくったものが国体であり、ただの風俗とは区別される、という整理です。普遍的な価値と、その国や組織ならではのあり方をどう両立させるか。この問いは、文化の違う人々と働く今の私たちにも身近なものです。

この章句が説くこと

国体普遍独自性風俗五倫

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