講孟余話 / 離婁下 第十二章
赤子之心ハ純一無僞而已ト註ス、純一ナレハ些トモ利害ヲ計較スルノ念ナク、無僞ナレハ些トモ機変巧詐ノ行ナシ、故ニ冨貴貧賤死生苦樂一ツモ外物ノ爲メニ誘セラルヽコトナク、鉄石ノ膓ヲ以テ万事ニ酬酢ス、天下何事カナスヘカラサラン、此篇大人ヲ論スル凡三章、第六章大人ノ爲サル所ヲ云、第十一章大人ノ爲ス所ヲ云、此章ニ至リ大人ノ胸中ヲ云、即チ爲ス所爲サヽル所ノ根本ナリ
新字:赤子之心ハ純一無偽而已ト註ス、純一ナレハ些トモ利害ヲ計較スルノ念ナク、無偽ナレハ些トモ機変巧詐ノ行ナシ、故ニ冨貴貧賤死生苦楽一ツモ外物ノ為メニ誘セラルヽコトナク、鉄石ノ膓ヲ以テ万事ニ酬酢ス、天下何事カナスヘカラサラン、此篇大人ヲ論スル凡三章、第六章大人ノ為サル所ヲ云、第十一章大人ノ為ス所ヲ云、此章ニ至リ大人ノ胸中ヲ云、即チ為ス所為サヽル所ノ根本ナリ
書き下し
「赤子の心は純一無偽のみ」と註す。純一なれば些とも利害を計較するの念なく、無偽なれば些とも機変巧詐の行ひなし。故に富貴貧賤死生苦楽一つも外物の為めに誘はるることなく、鉄石の腸を以て万事に酬酢す、天下何事かなすべからざらん。此の篇大人を論ずる凡そ三章。第六章は大人の為さざる所を云ひ、第十一章は大人の為す所を云ひ、此の章に至りて大人の胸中を云ふ。即ち為す所為さざる所の根本なり。
現代語訳
(「大人はその赤子の心を失わない者である」について)注に「赤子の心は、純一で偽りがないだけである」とある。純一であれば少しも利害を計算する思いがなく、偽りがなければ少しも策略や巧みな偽りの行いがない。だから富貴・貧賤・生死・苦楽のどれ一つにも外の物に誘われることがなく、鉄や石のような腸で万事に応じる。天下に何かできないことがあろうか。この篇で大人を論じたのはおよそ三章である。第六章は大人がしないことを言い、第十一章は大人がすることを言い、この章に至って大人の胸の内を言う。すなわち、することとしないことの根本である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「大人なる者は、其の赤子の心を失わざる者なり。」 <語釈> ○「大人」、趙注:大人は君を謂う。これに因れば、「大人」は国君を指しているが、前節に続き、広義に大人物と解釈し、具体的には国君であると解釈しておくのがよいだろう。
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『講孟余話』盡心上 第十九章「大人なる者あり、己を正しくして物正しき者なり」。仁斎云く、「此の章大人の事を論ぜんと欲して、先づ其の下なる者より、次第に之を言ふ」と、最も善く読む者と云ふべし。正己の二字是れ其の工夫なり。而して物正しきに至りては、前章の過化存神の妙、仁声人に入るの深き等と合せ考ふべし。天下の事、才力議論皆是れ末なり。一手の手、寸の舌を以て、天下の目を掩ひ億兆の心を服することは、断じて成らぬことにて、只徳を積まば、其の流行、置郵して命を伝ふるよりも速やかなり。粗浅薄俗の儒者は決して此の妙境を知ること能はず。只身に験して其の実否を知るべし。余の愚劣を以て、遽かに大人の「己を正しくして物正し」を冀はんと云はば、人必ず怪異の想ひをなさん。然れども是れ亦説あり。人は必ず人々の体段あり、其の体段は皆立志の初めにあることなり。故に君に事ふる人は終身君に事ふる人なり、社稷を安んずる臣は終身社稷を安んずる臣なり、天民は終身天民なり、大人は終身大人なり。往古来今、未だ嘗て君に事ふる人の容悦の功を積みて、社稷を安んずる臣となり、天民となり、終に大人に至ることを聞かず、是れ必無の事なり。故に余は初めより大人を以て志を立て、己を正しうして物を正しうせんとするなり。若し角の如くにして功なくして徒らに死すとも、吾敢へて悔いざるなり。
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『格言聯璧』敦品類・大人は赤子の心を失はず丈夫の高華は、只だ功名氣節に在り。 鄙夫の炫耀は、但だ諸を服飾起居に求む。 阿諛して容を取るは、男子は妾婦の道を爲すを恥づ。 本眞鑿たれず、大人は赤子の心を失はず。 君子の上に事ふるや、必ず忠以て敬、其の下に接するや、必ず謙以て和。
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『講孟余話』離婁下 第十三章此の章註已に明なり。今更に一異説を発して考へに備ふ。生を養ふは父母の目前の事なれば、甚だ狂妄の人に非ざるよりは、可なりに恭敬を致す者なれば、是れを以て遽かに其の人を信じ孝子とし、孝あれば悌もあるべく忠もあるべくなどと思ひ、大事に当てんとせば、大いなる誤りなるべし。死を送るに至りても尚能く必ず誠に必ず信なることこそ実の孝子にて、かかる人こそ大事に当るに足るべし。大事に当るとは、大切の事に当り、善く是れに堪ゆるを云ふ。即ち大節に臨みて奪ふべからざるの胆腸あるを云ふなり。当の字義、朱註と小異なり。是れ父母の生死のみならず、万事皆此の理なり。国強く勢盛んなる時は、孰れも忠勤を励むものなり。国衰へ勢去るに至りては、志を変じ敵に降り主を売る類寡なからず。故に人は晩節を全うするに非ざれば、何程才智学芸ありと雖も、亦何ぞ尊ぶに足らんや。明主に忠あるは珍らしからず、暗主に忠なるこそ真忠なれ。慈父に孝あるは珍らしからず、頑父に孝なるこそ真孝なれ。賞誉せられて忠孝なること珍らしからず、責罰せられて忠孝なるこそ真の忠孝なれ。士大夫たる者嗜むべきこと実に爰にあり。
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『講孟余話』離婁下 第十一章人に三等あり。下等の人は義に合はず信ならず果ならざるの徒にて、是れ妄人なり。中等の人は信を必とし果を必とし、未だ必ずしも義に合はざるの徒にて、是れ游侠の類なり。上等の人は即ち本文の所謂大人にて、信を必とせず果を必とせず、惟だ義の在る所に従ひて行ふの人なり。若し汎く人品を論ぜば、中等の人も亦得易きに非ず、軽んずることなかれ。然れども学をなすに至りては、上等を捨てて何をか学ばん。
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『講孟余話』離婁下 第二十八章此の章切実痛快、宜しく一通を録し座右に貼して朝夕観省すべし。其の義明白、弁を待たず。存心の二字一章の骨子、仁礼は其の目なり。「人恒に之れを愛敬す」は是れ常を云ひ、二の「自ら反す」は是れ変を云ふ。愈々反して愈々切なり。「忠なり」と云ふに至りては自ら居ること甚だ高し。常人或は前の二反を能くすと雖も、「忠なり」に至りては多くは忿恨に堪ふること能はず、是れ其の自ら居ること妄人と均しきのみ。説いて「終身の憂ひ」「一朝の患ひ」に至りて、字々直ちに肺腸を刺すを覚ゆ。遂に「舜の如くせんのみ」に落着す。其の工夫は則ち亦仁礼の二字のみ、是れ一章首尾照応の所なり。是等の章、孟子中に在りても亦多く得べからず、況んや他書に於てをや、豈に容易に看過すべけんや。
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