国語 / 越語下
反至五湖,范蠡辭於王曰:「君王勉之,臣不復入越國矣。」王曰:「不穀疑子之所謂者何也?」對曰:「臣聞之,為人臣者,君憂臣勞,君辱臣死。昔者君王辱於會稽,臣所以不死者,為此事也。今事已濟矣,蠡請從會稽之罰。」王曰:「所不掩子之惡,揚子之美者,使其身無終沒於越國。子聽吾言,與子分國。不聽吾言,身死,妻子為戮。」范蠡對曰:「臣聞命矣。君行制,臣行意。」遂乘輕舟以浮於五湖,莫知其所終極。 王命工以良金寫范蠡之狀而朝禮之,浹日而令大夫朝之,環會稽三百里者以為范蠡地,曰:「後世子孫,有敢侵蠡之地者,使無終沒於越國,皇天后土、四鄉地主正之。」
新字:反至五湖,范蠡辞於王曰:「君王勉之,臣不復入越国矣。」王曰:「不穀疑子之所謂者何也?」対曰:「臣聞之,為人臣者,君憂臣労,君辱臣死。昔者君王辱於会稽,臣所以不死者,為此事也。今事已済矣,蠡請従会稽之罰。」王曰:「所不掩子之悪,揚子之美者,使其身無終没於越国。子聴吾言,与子分国。不聴吾言,身死,妻子為戮。」范蠡対曰:「臣聞命矣。君行制,臣行意。」遂乗軽舟以浮於五湖,莫知其所終極。 王命工以良金写范蠡之状而朝礼之,浹日而令大夫朝之,環会稽三百里者以為范蠡地,曰:「後世子孫,有敢侵蠡之地者,使無終没於越国,皇天后土、四郷地主正之。」
書き下し
反りて五湖に至り、范蠡王に辞して曰く、「君王之を勉めよ。臣復た越国に入らず」と。王曰く、「不穀子の謂う所の者の何ぞやを疑う」と。対えて曰く、「臣之を聞く、人臣為る者は、君憂うれば臣労し、君辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。臣の死せざりし所以の者は、此の事の為なり。今事已に済(な)れり。蠡請う会稽の罰に従わん」と。王曰く、「子の悪を掩(おお)い、子の美を揚げざる所の者は、其の身をして越国に終没すること無からしめん。子吾が言を聴かば、子と国を分かたん。吾が言を聴かずんば、身死し、妻子戮と為らん」と。范蠡対えて曰く、「臣命を聞けり。君は制を行い、臣は意を行わん」と。遂に軽舟に乗りて以て五湖に浮かび、其の終極する所を知る莫し。 王工に命じて良金を以て范蠡の状を写さしめて之を朝礼し、浹日(しょうじつ)にして大夫をして之に朝せしめ、会稽を環(めぐ)る三百里の者を以て范蠡の地と為して曰く、「後世の子孫、敢えて蠡の地を侵す者有らば、越国に終没すること無からしめん。皇天后土・四郷の地主、之を正せ」と。
現代語訳
軍を返して五湖まで来たとき、范蠡は王に別れを告げた。「君王よ、どうかこれからも励まれますように。私は二度と越の国には戻りません」。王は言った。「あなたの言うことが何を意味するのか、わたしにはわからない」。范蠡は答えた。「私はこう聞いております。人の臣たる者は、君が憂えれば臣は骨を折り、君が辱められれば臣は死ぬものだと。かつて君王は会稽で辱めを受けられました。そのとき私が死ななかったのは、この事、すなわち呉を滅ぼすことのためでした。いま事はすでに成し遂げられました。どうか会稽のときに受けるべきであった罰に服させてください」。王は言った。「もしわたしがあなたの過ちを覆い隠し、あなたの美点をたたえないようなことがあれば、わたしはこの越の国で天寿を全うできなくともよい。あなたがわたしの言葉を聞き入れるなら、あなたと国を分け合おう。聞き入れないなら、あなたの身は死に、妻子も罰を受けることになろう」。范蠡は答えた。「ご命令は承りました。君は君のお定めを行われるがよい。臣は臣の思うところを行います」。こうして軽い舟に乗って五湖に漕ぎ出し、その行き着いた果てを知る者はいなかった。 王は工匠に命じて、良い金属で范蠡の姿をかたどった像を鋳造させ、自ら朝ごとに礼拝し、十日ごとに大夫たちにも礼拝させた。そして会稽山を取り巻く三百里の地を范蠡の領地と定め、誓って言った。「後の世の子孫で、蠡の地をあえて侵す者があれば、その者はこの越の国で天寿を全うできないであろう。天の神、地の神、四方の土地の神々よ、これを正したまえ」
解説
この章句が説くこと
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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