国語 / 斉語
桓公曰:「吾欲從事於諸侯,其可乎?」管子對曰:「未可。鄰國未吾親也。君欲從事於天下諸侯,則親鄰國。」桓公曰:「若何?」管子對曰:「審吾疆埸,而反其侵地;正其封疆,無受其資;而重為之皮幣,以驟聘眺於諸侯,以安四鄰,則四鄰之國親我矣。為遊士八十人,奉之以車馬、衣裘,多其資幣,使周遊於四方,以號召天下之賢士。皮幣玩好,使民鬻之四方,以監其上下之所好,擇其淫亂者而先征之。」
新字:桓公曰:「吾欲従事於諸侯,其可乎?」管子対曰:「未可。鄰国未吾親也。君欲従事於天下諸侯,則親鄰国。」桓公曰:「若何?」管子対曰:「審吾疆埸,而反其侵地;正其封疆,無受其資;而重為之皮幣,以驟聘眺於諸侯,以安四鄰,則四鄰之国親我矣。為遊士八十人,奉之以車馬、衣裘,多其資幣,使周遊於四方,以号召天下之賢士。皮幣玩好,使民鬻之四方,以監其上下之所好,択其淫乱者而先征之。」
書き下し
桓公曰く、「吾諸侯に従事せんと欲す。其れ可ならんか」と。管子対えて曰く、「未だ可ならず。鄰国未だ吾に親しまざるなり。君天下の諸侯に従事せんと欲せば、則ち鄰国に親しめ」と。桓公曰く、「若何」と。管子対えて曰く、「吾が疆埸(きょうえき)を審らかにして、其の侵地を反し、其の封疆を正して、其の資を受くる無く、而して重く之が皮幣(ひへい)を為して、以て驟(しばしば)諸侯に聘眺(へいちょう)し、以て四鄰を安んぜば、則ち四鄰の国我に親しまん。遊士八十人を為(つく)り、之に奉ずるに車馬・衣裘を以てし、其の資幣を多くし、四方に周遊せしめて、以て天下の賢士を号召せしむ。皮幣玩好は、民をして之を四方に鬻(ひさ)がしめ、以て其の上下の好む所を監(み)、其の淫乱なる者を択びて先ず之を征せん」と。
現代語訳
桓公が言った。「私は諸侯のあいだで事を起こしたいが、もうよいだろうか。」管子は答えた。「まだなりません。隣の国々がまだわが国に親しんでいません。主君が天下の諸侯に向けて事を起こしたいのなら、まず隣国と親しくなさい。」桓公が「どうすればよいか」と問うと、管子は答えた。「わが国の国境をはっきりさせ、奪い取った隣国の土地を返し、境界を正し、隣国からの贈り物は受け取らず、こちらからは毛皮や絹を手厚く贈って、たびたび諸侯のもとに使者を送って聘問し、四方の隣国を安心させれば、隣国は皆わが国に親しむでしょう。また遊説の士を八十人用意し、車馬や衣服・皮衣を与え、資金と贈り物をたっぷり持たせて四方を巡らせ、天下の賢者を呼び寄せさせるのです。さらに毛皮や絹、珍しい品々を民に四方で売り歩かせ、各国の君臣が何を好んでいるかを探らせ、そのなかで淫らで乱れている国を選んで、まずそこを討つのです。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 酈生陸賈列伝曰く、「越中には与に語るに足る無し。生の来たるに至りて、我をして日に聞かざる所を聞かしむ」と。陸生に橐中の装、直(あたひ)千金なるを賜ひ、他に送ること亦千金。陸生卒に尉他を拝して南越王と為し、臣と称して漢の約を奉ぜしむ。帰りて報ず。高祖大いに悦び、賈を拝して太中大夫と為す。
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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説苑・辨物斉の桓公北のかた孤竹を征す。未だ卑耳谿中に至らざること十里、闟然(こうぜん)として止まり、瞠然(どうぜん)として視ること頃(しばら)く有り、矢を奉じて未だ敢えて発せず。喟然として歎じて曰わく、「事其れ済(な)らざるか。人の長さ尺なる有り、冠冕大人の物具わる。左袪(きょ)して衣し馬前を走る者あり。」管仲曰わく、「事必ず済らん。此の人は道を知るの神なり。馬前を走る者は導くなり。左に衣を袪する者は、前に水有るなり。」左方より渡り、行くこと十里にして果たして水有り、遼水と曰う。之を表し、左方より渡れば踝(くるぶし)に至り、右方より渡れば膝に至る。已に渡りて、事果たして済る。桓公馬前に管仲を拝して曰わく、「仲父の聖此くの如きに至る、寡人罪を得ること久し。」管仲曰わく、「夷吾之を聞く、聖人は先に無形を知る、今已に形有りて乃ち之を知る、是れ夷吾教えを承くるに善きなり、聖に非ざるなり。」
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説苑・指武齊の桓公の時、霖雨十旬。桓公漅陵を伐たんと欲するも、其の城の雨に值うや、未だ合わず。管仲・隰朋卒徒を以て門に造る、桓公曰く、「徒眾何を以て為すか」と。管仲對えて曰く、「臣之を聞く、雨あれば則ち事有りと。夫れ漅陵雨に能わず、臣請う之を攻めん」と。公曰く、「善し」と。遂に師を興して之を伐つ。既に至れば、大卒外に間して士內に在り、桓公曰く、「其れ聖人有るか」と。乃ち旗を還して之を去る。
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論語・八佾篇子曰く、『管仲の器、小なる哉!』或曰く、『管仲は倹なりや。』曰く、『管氏に三帰有り。』曰く、『然らば礼を知るや。』曰く、『邦君、塞門を樹つ、管氏も亦塞門を樹つ。邦君、二君の好を為すに反坫有り、管氏も亦反坫有り。管仲、その器小なる哉!』
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