古事記 / 下巻・雄略崩御と清寧の治世
爾袁杼比賣獻歌。其歌曰。夜須美斯志。和賀淤富岐美能。阿佐斗爾波。伊余理陀多志。由布斗爾波。伊余理陀多須。和岐豆紀賀。斯多能。伊多爾母賀。阿世袁。此者志都歌也。天皇。御年壹佰貳拾肆歲。(【己/已】巳年八月九【日/旦】崩也。)御陵在河內之多治比高鶴也。白髮大倭根子命。坐伊波禮之甕栗宮。治天下也。此天皇。無皇后。亦無御子。故御名代。定白髮部。故天皇崩後。無可治天下之王也。於是。問日繼所知之王。市邊忍齒別王(履仲天皇之子)之妹。忍海郎女。亦名飯豐王。坐葛城忍海之高木角刺宮也。爾山部連小楯。任針間國之宰時。到其國之人民名志自牟之新室樂。於是盛樂。酒酣。以次第皆儛。故燒火少子二口。居竈傍。令儛其少子等。
新字:爾袁杼比売献歌。其歌曰。夜須美斯志。和賀淤富岐美能。阿佐斗爾波。伊余理陀多志。由布斗爾波。伊余理陀多須。和岐豆紀賀。斯多能。伊多爾母賀。阿世袁。此者志都歌也。天皇。御年壱佰貳拾肆歳。(【己/已】巳年八月九【日/旦】崩也。)御陵在河内之多治比高鶴也。白髪大倭根子命。坐伊波礼之甕栗宮。治天下也。此天皇。無皇后。亦無御子。故御名代。定白髪部。故天皇崩後。無可治天下之王也。於是。問日継所知之王。市辺忍歯別王(履仲天皇之子)之妹。忍海郎女。亦名飯豊王。坐葛城忍海之高木角刺宮也。爾山部連小楯。任針間国之宰時。到其国之人民名志自牟之新室楽。於是盛楽。酒酣。以次第皆儛。故焼火少子二口。居竈傍。令儛其少子等。
書き下し
爾に袁杼比売、歌を献りき。その歌に曰はく、「やすみしし 我が大君の 朝戸には い寄り立たし 夕戸には い寄り立たす 脇机が 下の 板にもが 吾兄を」。これは志都歌なり。天皇、御年壱佰貳拾肆歳。(己巳の年の八月九日に崩りたまひき。)御陵は河内の多治比の高鶴にあり。白髪大倭根子命、伊波礼の甕栗宮に坐して、天下を治めたまひき。この天皇、皇后なく、亦御子なし。故、御名代として、白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りまして後、天下を治むべき王なかりき。ここに、日継知らしめすべき王を問ふに、市辺忍歯別王(履中天皇の子)の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木角刺宮に坐しき。爾に山部連小楯、針間国の宰に任けらえし時、その国の人民、名は志自牟が新室の楽に到りき。ここに盛りに楽して、酒たけなはに、次第を以ちて皆儛ひき。故、燃火の少子二口、竈の傍に居りき。その少子等を召して儛はしめき。
現代語訳
そこで袁杼比売は歌を献じました。その歌は、「わが大君が、朝は戸口に寄り立ち、夕べは戸口に寄り立たれる、その脇机の下の板になりたい。わが君のそばで」というものです。これは志都歌です。天皇(雄略)は、お年百二十四歳で、己巳の年の八月九日にお亡くなりになりました。御陵は河内の多治比の高鶴にあります。白髪大倭根子命(清寧天皇)は、伊波礼の甕栗宮にいらして天下を治められました。この天皇には皇后も御子もありませんでした。そこで御名代として白髪部をお定めになりました。そのため、天皇がお亡くなりになった後、天下を治めるべき王がいませんでした。そこで、皇位を継ぐべき王を探したところ、市辺忍歯別王(履中天皇の子)の妹、忍海郎女、別名を飯豊王が、葛城の忍海の高木角刺宮におられました。さて、山部連小楯が針間国の長官に任じられたとき、その国の人民で名を志自牟という者の新築祝いの宴に出向きました。宴がたけなわとなり、酒も進んだころ、順番にみな舞いました。そこで竈のそばに、火を焚く少年が二人おりました。その少年たちを呼び出して舞わせることにしました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『神皇正統記』巻三 第二十三代 清寧天皇第二十三代、清寧天皇は雄略第三の子。御母韓姫、葛城の円の大臣の女也。庚申の年即位。大倭の磐余甕栗の宮にまします。誕生の始、白髪おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、皇胤のたえぬべき事を歎給て、国々へ勅使をつかはして皇胤を求らる。市辺の押羽の皇子、雄略にころされ給しとき、皇女一人、皇子二人ましけるが、丹波国にかくれ給けるを求出て、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おましましき。
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『古事記』下巻・仁徳崩御と墨江中王の乱その音、七里に響みき。ここに歌ひて曰く、「枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の 海石に 触れ立つ 浸漬の木の さやさや」。これは志都歌の返歌なり。この天皇、御年八十三歳。(丁卯の年の八月十五日に崩りましき。)御陵は毛受の耳原に在り。伊邪本和気命、伊波礼(大和の十市郡に在り)の若桜宮に坐して、天下を治らしめしき。この天皇、葛城の曽都毘古の子、葦田宿禰の女、名は黒比売命を娶して、生みませる御子、市辺之忍歯王、次に御馬王、次に妹青海郎女、またの名は飯豊郎女、三柱。本、難波宮に坐しし時、大嘗に坐して、豊明を為す時、大御酒に浮かれて、大御寝したまひき。ここにその弟墨江中王、天皇を取らむと欲ひて、火を大殿に著けき。ここに倭漢直の祖、阿知直、盗み出して、御馬に乗せて倭に幸ししめき。故、多遅比野に到りて寤めて、詔りたまひしく、「ここは何処ぞ」とのりたまひき。
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『古事記』下巻・仁賢天皇と后妃御子意富祁命、石上の広高宮に坐して、天下を治めたまひき。天皇、大長谷若建天皇の御子、春日大郎女を娶りて、生みませる御子、高木郎女。次に財郎女。次に久須毘郎女。次に手白髪郎女。次に小長谷若雀命。次に真若王。又、丸邇の日爪臣の女、糠若子郎女を娶りて、生みませる御子、春日山田郎女。この天皇の御子、并せて七柱。この中に小長谷若雀命は、天下を治めたまひき。小長谷若雀命、長谷の列木宮に坐して、天下を治めたまふこと捌歳なり。この天皇、太子なし。故、御子代として、小長谷部を定めたまひき。御陵は片岡の石坏岡にあり。天皇既に崩りまして、日継を知らしむべき王なし。故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を、近つ淡海国より上り坐しめて、手白髪命に合はせて、天下を授け奉りき。
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『古事記』下巻・雄略の后妃と大県主大長谷若建命、長谷の朝倉宮に坐して、天下を治らしめしき。天皇、大日下王の妹、若日下部王を娶したまひしが、子无し。また都夫良意富美の女、韓比売を娶して、生みませる御子、白髪命、次に妹若帯比売命、二柱。故、白髪太子の御名代と為て、白髪部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定めたまひき。この時、呉人参ゐ渡り来つ。その呉人を呉原に安置きたまひき。故、その地を号けて呉原と謂ふ。初め大后の日下に坐しし時、日下の直越の道より、河内に幸行でましき。ここに山の上に登りて、国内を望みたまへば、上堅魚を作れる舎屋の家有りき。天皇、その家を問はしめて云ひしく、「その上堅魚を作れる舎は、誰が家ぞ」とのりたまひき。答へて白さく、「志幾の大県主が家なり」とまをしき。ここに天皇詔りたまひしく、「奴や、己が家を、天皇の御舎に似せて造れり」とのりたまひて、即ち人を遣はして、その家を焼かしめたまふ時、その大県主、懼り畏みて、稽首きて白さく、「奴にあれば、奴のまにまに覚らずして過ち作れり。甚畏し。故、能美の御幣物(能美の二字は音を以てす)を献らむ」とまをして、布を白き犬に繋けて、鈴を著けて、己が族、名は腰佩と謂ふ人をして、その犬の縄を取らしめて献上りき。
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