古事記 / 下巻・安康天皇の暗殺と兄殺し
爾天皇不知其少王遊殿下以。詔大后言。吾恒有所思。何者。汝之子目弱王。成人之時。知吾殺其父王者。還爲有邪心乎。於是。所遊其殿下目弱王。聞取此言。便竊伺天皇之御寢。取其傍大刀。乃打斬其天皇之頸。逃入都夫良意富美之家也。天皇御年伍拾陸歲。御陵在菅原之伏見岡也。爾大長谷王子。當時童男。即聞此事以。慷慨恐怒。乃到其兄黑日子王之許曰。人取天皇。爲何那。然其黑日子王。不驚而。有怠緩之心。於是。大長谷王置其兄言。一爲天皇。一爲兄。何無恃心。聞殺其兄。不驚而。怠乎。即握其衿。控出。援刀。打殺。亦到其兄白日子王而。告狀如前。緩亦如黑日子王。即握其衿以。引率來。到小治田。掘穴而隨立。埋者。至埋腰時。兩目走拔而死。
新字:爾天皇不知其少王遊殿下以。詔大后言。吾恒有所思。何者。汝之子目弱王。成人之時。知吾殺其父王者。還為有邪心乎。於是。所遊其殿下目弱王。聞取此言。便窃伺天皇之御寝。取其傍大刀。乃打斬其天皇之頸。逃入都夫良意富美之家也。天皇御年伍拾陸歳。御陵在菅原之伏見岡也。爾大長谷王子。当時童男。即聞此事以。慷慨恐怒。乃到其兄黒日子王之許曰。人取天皇。為何那。然其黒日子王。不驚而。有怠緩之心。於是。大長谷王置其兄言。一為天皇。一為兄。何無恃心。聞殺其兄。不驚而。怠乎。即握其衿。控出。援刀。打殺。亦到其兄白日子王而。告状如前。緩亦如黒日子王。即握其衿以。引率来。到小治田。掘穴而随立。埋者。至埋腰時。両目走抜而死。
書き下し
ここに天皇、その少き王の殿の下に遊ぶを知らざるを以て、大后に詔りて言りたまひしく、「吾は恒に思ふ所有り。何とならば、汝の子目弱王、人と成りし時、吾その父王を殺せしを知らば、還りて邪き心有らむか」とのりたまひき。ここに殿の下に遊べる目弱王、この言を聞き取りて、便ち竊かに天皇の御寝を伺ひて、その傍の大刀を取りて、乃ちその天皇の頸を打ち斬りて、都夫良意富美の家に逃げ入りき。天皇の御年、五十六歳。御陵は菅原の伏見の岡に在り。ここに大長谷王子、当時童男にして、即ちこの事を聞きて、慷慨み忿怒りて、乃ちその兄黒日子王の許に到りて曰く、「人、天皇を取りつ。何為む」といひき。然れどもその黒日子王、驚かずして、怠緩の心有りき。ここに大長谷王、その兄に言を置きて、「一つには天皇、一つには兄にます。何か恃む心無き。その兄を殺せると聞きて、驚かずして怠るか」といひて、即ちその衿を握りて控き出し、刀を援きて打ち殺しき。またその兄白日子王の許に到りて、状を告ぐること前の如し。緩きことまた黒日子王の如し。即ちその衿を握りて以て引き率て来て、小治田に到り、穴を掘りて隨に立てて、埋みしかば、腰を埋む時に至りて、両つの目走り抜けて死にき。
現代語訳
天皇は、幼い王が殿の下で遊んでいるのを知らずに、大后に言いました。「私はいつも心配していることがある。それは、おまえの子の目弱王が大人になった時、私がその父王を殺したと知ったら、かえって悪い心を抱くのではないか、ということだ」。殿の下で遊んでいた目弱王は、この言葉を聞き取り、ひそかに天皇の寝所をうかがって、そばの太刀を取り、天皇の首を打ち斬って、都夫良意富美の家に逃げ込みました。天皇の御年は五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。そのとき大長谷王子は少年で、この事件を聞いて憤り怒り、兄の黒日子王のもとに行って、「人が天皇を殺しました。どうしますか」と言いました。しかし黒日子王は驚かず、のんびりとしていました。大長谷王は兄に向かって、「一つには天皇、一つには兄でありながら、どうして頼もしい心がないのか。その兄が殺されたと聞いて、驚きもせず怠けているのか」と言い、衿をつかんで引き出し、刀を抜いて打ち殺しました。また別の兄の白日子王のもとに行って、前と同じように状況を告げましたが、のんびりした様子も黒日子王と同じでした。すぐに衿をつかんで引き連れて小治田に行き、穴を掘ってそのまま立たせて埋めると、腰まで埋めた時に両目が飛び出して死にました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『古事記』下巻・大日下王の殺害と目弱王故、この二つの歌は読歌なり。穴穂御子、石上の穴穂宮に坐して、天下を治らしめしき。天皇、伊呂弟大長谷王子の為に、坂本臣等の祖、根臣を、大日下王の許に遣はして、詔らしめしく、「汝命の妹、若日下王を、大長谷王子に婚はせむと欲ふ。故、貢るべし」とのりたまひき。ここに大日下王、四たび拝みて白さく、「もしかかる大命有らむかと疑ひき。故、外に出ださずして置きつ。これ恐し。大命のまにまに奉進らむ。然れども言を以て白さむは、その思ふこと无礼なり」とまをして、即ちその妹の礼物として、押木の玉縵を持たしめて貢献りき。根臣、即ちその礼物の玉縵を盗み取りて、大日下王を讒して曰く、「大日下王は、勅命を受けずして曰く、『己が妹を、等しき族の下席と為むや』と言ひて、横刀の手上を取りて怒りぬ」といひき。故、天皇大きに怒りて、大日下王を殺して、その王の嫡妻長田大郎女を取り持ち来て、皇后と為したまひき。これより後、天皇、神牀に坐して、昼寝したまひき。ここにその后に語りて曰く、「汝、思ふ所有りや」とのりたまひき。答へて曰く、「天皇の敦き沢を被りて、何か思ふ所有らむ」とまをしき。ここにその大后の先の子目弱王、この年七歳なり。この王、その時に当たりて、その殿の下に遊びき。
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『神皇正統記』巻三 第二十一代 安康天皇第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫、稚渟野毛二派の皇子女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。大草香皇子をころして其妻をとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しけり。天皇高楼の上に酔臥給けるをうかゞひて、さしころして、大臣葛城の円が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おましましき。
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『古事記』下巻・忍歯王の殺害と二王その立てる足は、荻原の如く、指し挙げたる角は、枯れ樹の如し」とまをしき。この時、市辺之忍歯王を相率て、淡海に幸行でまして、その野に到りしかば、各異に仮宮を作りて宿りたまひき。ここに明くる旦、未だ日の出でざる時、忍歯王、平き心を以て、御馬のまにまに、大長谷王の仮宮の傍に到り立ちて、その大長谷王子の御伴人に詔りたまひしく、「未だ寤め坐さず。早く白すべし。夜既に曙け訖んぬ。猟庭に幸すべし」とのりたまひて、乃ち馬を進めて出で行きたまひき。ここに大長谷王に侍ふ御所の人等白さく、「うたて物言ふ王子(宇多豆の三字は音を以てす)なり。故、慎むべし。また宜しく御身を堅めたまふべし」とまをして、即ち衣の中に甲を服、弓矢を取り佩きて、馬に乗りて出で行きたまひき。倏忽の間に、馬より往き雙びて、矢を抜き、その忍歯王を射落として、乃ちまたその身を切りて、馬槽に入れて、土と等しく埋みたまひき。ここに市辺王の王子等、意富祁王、袁祁王、二柱、この乱を聞きて逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井に到りて、御粮を食す時、面に黥ある老人来て、その粮を奪ひき。ここにその二王言ひしく、「粮は惜しまず。然れども汝は誰人ぞ」とのりたまひき。答へて曰く、「我は山代の猪甘なり」といひき。故、逃げて玖須婆の河を渡り、針間国に至りて、その国人、名は志自牟が家に入りて、身を隠し、馬甘牛甘に役はれたまひき。
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『古事記』下巻・置目の帰郷と陵の破壊ここに置目老媼、白さく、「僕、甚だ耆老いにたり。本つ国に退らむと欲ふ」とまをす。故、白すに随ひて退る時、天皇見送りて、歌ひたまはく、「置目もや 近江の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ」。初め天皇、難に逢ひて逃げたまひし時、その御糧を奪ひし猪甘の老人、これ求め得たり。喚び上げて、飛鳥河の河原に斬り、皆その族の膝の筋を断ちき。ここを以ちて、今に至るまで、その子孫、倭に上る日は、必ず自ら跛なり。故、よく志米岐(志米岐の三字は音を以ちてす)、その老の所在を見き。故、その地を志米須と謂ふ。天皇、深くその父王を殺したまひし大長谷天皇を怨み、その霊に報いむと欲ほしき。故、その大長谷天皇の御陵を毀たむと欲ひて、人を遣はさむとする時、その伊呂兄意富祁命奏して言さく、「この御陵を破壊らむには、他し人を遣るべからず。専ら僕自ら行きて、天皇の御心の如く、破壊りて参出む」とまをしき。爾に天皇、詔りたまはく、「然らば、命のまにまに宜しく幸行でよ」とのりたまひき。ここを以ちて意富祁命、自ら下り幸でまして、少しくその御陵の傍の土を掘りて、還り上りて、復奏して言さく、「既に掘り壊ちつ」とまをしき。爾に天皇、その早く還り上りしを異しみて、詔りたまはく、「如何にか破壊りし」とのりたまひき。答へて白さく、「少しくその陵の傍の土を掘りつ」とまをしき。
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『古事記』下巻・意富祁命の諫言天皇詔りたまはく、「父王の仇に報いむと欲ふ。必ず悉に其の陵を破壊らむ。何ぞ少しく掘れるや」とのりたまひき。答へて曰さく、「然せし所以は、父王の怨みを、その霊に報いむと欲ふこと、これ誠に理なり。然れども、その大長谷天皇は、父の怨みなりと雖も、還りては我が従父にして、亦天下を治めし天皇なり。今、単に父の仇といふ志のみを取りて、悉に天下を治めし天皇の陵を破らば、後の人必ず誹謗らむ。ただ父王の仇は、報いずあるべからず。故、少しくその陵の辺を掘れり。既にこれを以ちて恥とす。後の世に示すに足れり」とまをす。かく奏しかば、天皇答へて詔りたまはく、「これ亦大きなる理なり。命のごとくして可し」とのりたまひき。故、天皇崩りまして、即ち意富祁命、天津日継を知らしめしき。天皇、御年参拾捌歳。天下を治めたまふこと八歳。御陵は片岡の石坏岡の上にあり。
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『古事記』下巻・都夫良意富美の最期また軍を興して、都夫良意富美の家を囲みたまひき。ここに軍を興して待ち戦ひ、射出づる矢、葦の如く来散りき。ここに大長谷王、矛を以て杖と為て、その内を臨みて詔りたまひしく、「我が相言へる嬢子は、もしこの家に有りや」とのりたまひき。ここに都夫良意富美、この詔命を聞きて、自ら参り出でて、佩ける兵を解きて、八度拝みて白さく、「先の日問ひ賜へる女子、訶良比売は侍はむ。また五処の屯宅を副へて献らむ。(いはゆる五村の屯宅とは、今の葛城の五村の苑人なり。)然れどもその正身の参向はざる所以は、往古より今時に至るまで、臣連の王宮に隠るるは聞けども、いまだ王子の臣の家に隠るるは聞かず。ここを以て思ふに、賤しき奴意富美は、力を竭して戦ふとも、更に勝つべきこと無し。然れども己を恃みて、わが家に入り坐せる王子は、死にても棄てじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戦ひき。ここに力窮まり、矢尽きて、その王子に白さく、「僕は手悉に傷つき、矢もまた尽きぬ。今は戦ふこと得ず。如何」とまをしき。その王子、答へて詔りたまひしく、「然らば、更に為すべきこと無し。今、吾を殺せ」とのりたまひき。故、刀を以てその王子を刺し殺して、乃ち己が頸を切りて死にき。これより後、淡海の佐佐紀山君の祖、名は韓帒白さく、「淡海の久多綿の蚊屋野、多に猪鹿在り。

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