古事記 / 中巻・言葉を発しない御子
故率遊其御子之狀者。在於尾張之相津。二俣榲作二俣小舟而。持上來以。浮倭之市師池(十市郡)。輕池。率遊其御子。然是御子八拳鬚至于心前。眞事(御言)登波受。(此三字以音)故今聞高往鵠之音。始爲阿藝登比。(小兒初語)(自阿下四字以音)爾遣山邊之大鶙。(此者人名)令取其鳥。故是人。追尋其鵠。自木國到針間國。亦追越稻羽國。即到旦波國。多遲麻國。追廻東方。到近淡海國。乃越三野國。自尾張國傳以。追科野國。遂追到高志國而。於和那美之水門張網。取其鳥而持上獻。故號其水門。謂和那美之水門也。亦見其鳥者。於思物言而。如思爾。勿言事。於是。天皇患賜而。御寢之時。覺于御夢曰。修理我宮。如天皇之御舍者。御子必眞事登波牟。(自登下三字以音)如此覺時。布斗麈邇邇(太占)占相而。求何神之心。
新字:故率遊其御子之状者。在於尾張之相津。二俣榲作二俣小舟而。持上来以。浮倭之市師池(十市郡)。軽池。率遊其御子。然是御子八拳鬚至于心前。真事(御言)登波受。(此三字以音)故今聞高往鵠之音。始為阿芸登比。(小児初語)(自阿下四字以音)爾遣山辺之大鶙。(此者人名)令取其鳥。故是人。追尋其鵠。自木国到針間国。亦追越稲羽国。即到旦波国。多遅麻国。追廻東方。到近淡海国。乃越三野国。自尾張国伝以。追科野国。遂追到高志国而。於和那美之水門張網。取其鳥而持上献。故号其水門。謂和那美之水門也。亦見其鳥者。於思物言而。如思爾。勿言事。於是。天皇患賜而。御寝之時。覚于御夢曰。修理我宮。如天皇之御舎者。御子必真事登波牟。(自登下三字以音)如此覚時。布斗麈邇邇(太占)占相而。求何神之心。
書き下し
かれその御子を率(ゐ)て遊ばせし状(さま)は、尾張の相津に在る二俣榲(ふたまたすぎ)をもちて二俣小舟を作りて、持ち上り来て、倭の市師池(十市郡)、軽池に浮かべて、その御子を率て遊ばせき。然れどもこの御子、八拳鬚(やつかひげ)心の前に至るまで、真事(まこと)(御言)とは受(え)ず。(この三字は音をもちてす。)かれ今、高く行く鵠(くぐひ)の音を聞きて、始めて阿芸登比(あぎとひ)をなす。(小児の初めて語るなり。)(阿より下の四字は音をもちてす。)爾して山辺の大鶙(おほたか)(これは人の名なり)を遣はして、その鳥を取らしめたまひき。かれこの人、その鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、また稲羽国に追ひ越えて、即ち旦波国、多遅麻国に到り、東方に追ひ廻りて、近淡海国に到り、乃ち三野国を越えて、尾張国より伝ひて、科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、その鳥を取りて持ち上りて献りき。かれその水門を号(なづ)けて和那美の水門といふ。また、その鳥を見たまへば、物言はむと思ひて言はず、思ふごとくならず、言ふこと勿し。ここに天皇患へたまひて、御寝(みね)したまふ時に、御夢に覚(さと)して曰はく、「我が宮を修理(をさ)めて、天皇の御舎(みあらか)のごとくせば、御子は必ず真事とはむ」。(登より下の三字は音をもちてす。)かく覚(さと)したまふ時に、布斗麻邇邇(ふとまに)(太占)に占相(うらな)ひて、いづれの神の心ぞと求めき。
現代語訳
御子を連れて遊ばせた様子はこうです。尾張の相津にある二股の杉で二股の小舟を作り、それを運び上げて、大和の市師池と軽池に浮かべ、御子を遊ばせました。しかしこの御子は、八握りもある長いひげが胸の前に届くほどの年になっても、まともな言葉をお話しになりませんでした。ところがあるとき、空高く飛ぶ白鳥の声を聞いて、はじめて片言のような声を出しました。(幼児が初めて話す言葉です)。そこで天皇は山辺の大鶙という人を遣わして、その鳥を捕らえさせました。大鶙は白鳥を追って、紀伊国から播磨国へ、さらに因幡国を追い越して丹波国、但馬国に至り、東へ回って近江国に至り、美濃国を越え、尾張国から伝って信濃国に追い、ついに越の国まで追いついて、和那美の水門に網を張って鳥を捕らえ、持ち帰って献上しました。それでその水門を和那美の水門と呼びます。しかし、その鳥を見ても、御子は何か言いたそうにしながら言えず、思うようにならず、何も話しませんでした。天皇は心配されていたところ、眠った夜に夢でお告げがありました。「私の宮を修理し、天皇の宮殿のようにすれば、御子は必ずまともに話すようになるだろう」。このお告げを受けたので、太占で占い、どの神のお心なのかを探しました。
解説
この章句が説くこと
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『古事記』中巻・御子の名と后の遺言ここをもちてその御子を取り獲て、その御祖を得ず。かれその軍士等還り来て奏して言さく、「御髪自ら落ち、御衣は易く破れ、また纒かせる御手の玉の緒便ち絶えぬ。かれ御祖を獲ずて、御子を取り得たり」とまをしき。爾して天皇悔い恨みたまひて、玉を作る人等を悪(にく)みて、皆その地を奪ひたまひき。かれ諺に「地を得ぬ玉作」といふなり。また天皇、その后に命詔(のりたま)はく、「すべて子の名は必ず母の名づくるを、何(いか)にかこの子の御名を称(い)はむ」とのりたまひき。爾して答へ白さく、「今まさに火をもちて稲城を焼く時に、火の中に生まれませるが故に、その御名は、本牟智和気御子と称ふべし」とまをしたまひき。また命詔はく、「何(いか)にしてか日足(ひた)し奉らむ」とのりたまひき。答へ白さく、「御母を取り、大湯坐(おほゆゑ)、若湯坐(わかゆゑ)を定めて、日足し奉るべし」とまをしたまひき。かれその后の白したまひし随(まにま)に、日足し奉りき。また、その后に問ひて曰はく、「汝(なれ)の堅めし美豆能小佩(みづのをひも)は誰か解かむ」とのりたまひき。(美豆能の三字は音をもちてす。)答へ白さく、「旦波比古多多須美智能宇斯王(日子坐王の子、開化の孫なり。沙本毘売の異母兄弟)の女、名は兄比売、弟比売、この二柱の女王、浄き公民(おほみたから)なり。かれ使ふべし」とまをしたまひき。然れども遂にその沙本毘古王を殺しつ。その伊呂妹(いろも)もまた従ひたまひき。
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『古事記』中巻・白鳥御陵と御子たちかれその地に御陵を作りて鎮め坐せまつりき。即ちその御陵を号けて白鳥御陵と謂ふ。然れどもまたその地より更に天に翔りて飛び行きき。すべてこの倭建命、国を平らげて廻り行でましし時に、久米直が祖、名は七拳脛、恒に膳夫(かしはで)として、従ひ仕へ奉りき。この倭建命、伊玖米天皇(垂仁)の女、布多遅能伊理毘売命を娶りて、(布より下の八字は音をもちてす。)生みませる御子、帯中津日子命(仲哀)。(一柱。)また、その入海したまひし弟橘比売を娶りて、生みませる御子、若建王。(一柱。)また近淡海の安国造の祖、意富多牟和気の女、布多遅比売を娶りて、生みませる御子、稲依別王。(一柱。)また吉備臣建日子の妹、大吉備建比売を娶りて、生みませる御子、建貝児王。(一柱。)また山代の玖玖麻毛理比売を娶りて、生みませる御子、足鏡別王。(一柱。)また一妻の子、息長田別王。すべてこの倭建命の御子等并せて六柱。かれ帯中津日子命は、天の下治らしめしき。次に稲依別王は、(犬上(近江)君、建部君等が祖なり。)次に建貝児王は、(讃岐の綾(阿野)君、伊勢の別、登袁の別、麻佐の首、宮の首の別等が祖なり。)次に足鏡別王は、(鎌倉(相模)の別、小津、石代の別、漁田の別が祖なり。)次に息長田別王の子、杙俣長日子王。この王の子、飯野真黒比売命、
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『古事記』中巻・出雲参拝と肥長比売かれ出雲に到りて、大神を拝み訖(を)へて、還り上る時に、肥河(ひのかは)の中に黒き樔橋(すばし)を作り、仮宮を仕へ奉りて坐さしめき。爾して出雲国造の祖、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を飾りて、その河下に立て、大御食を献らむとせし時に、その御子詔りたまはく、「この河下にある、青葉の山のごときは、山と見えて山にあらず。もし出雲の石硐(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神を、斎(いつ)き祭る祝(はふり)の大庭(おほには)か」と問ひたまひき。爾して遣はされし御伴の王等、聞きて歓び見て喜び、御子は檳榔(あぢまさ)の長穂宮に坐さしめて、駅使(はゆまづかひ)を貢(たてまつ)り上らしめき。爾してその御子、一宿(ひとよ)肥長比売に婚(あ)ひたまひき。かれ竊(ひそ)かにその美人(をとめ)を伺へば蛇なりき。即ち見て畏み逃げたまひき。爾してその肥長比売患(うれ)へて、海原を光(て)らして、船より追ひ来たりき。かれ益々見て畏み、山の多和(たわ)(この二字は音をもちてす)より御船を引き越して、逃げ上り行きたまひき。ここに覆奏(かへりごとまを)して言さく、「大神を拝むによりて、大御子ものを詔りたまひき。かれ参上り来つ」とまをしき。かれ天皇歓喜(よろこ)びたまひて、即ち菟上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。また、その后の白したまひし随(まにま)に、美知能宇斯王の女等、比婆須比売命、
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『古事記』中巻・出雲の祟りと曙立王の誓約爾して祟りは出雲大神(杵築の大社に坐す)の御心なりき。かれその御子をして、その大神の宮を拝ましめむとして遣はさむ時に、誰人を副(そ)へしめば吉(よ)けむとする。爾して曙立王(あけたつのみこ)卜(うら)に食(あ)ひき。かれ曙立王に科(おほ)せて、宇気比(うけひ)白さしめたまひき。(宇気比の三字は音をもちてす。)「ここに大神を拝むによりて、まことに験(しるし)あらば、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、宇気比に落ちよ」とかく詔りたまふ時に、その鷺、宇気比のままに地に墮ちて死にき。また詔りたまはく「宇気比に活きよ」と。爾して更に活きき。また甜白檮(あまかし)(高市)の前に在る葉広熊白檮(はびろくまかし)を、宇気比に枯らし、また宇気比に生かしき。爾してその曙立王に名を賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとにはしきとみのとよあさくらのあけたつのみこ)と謂ふ。(登美の二字は音をもちてす。)即ち曙立王、菟上王(うなかみのみこ)の二王を、その御子に副へて遣はす時に、那良戸(ならと)より行かば跛(あしなへ)、盲(めしひ)に遇はむ。大坂戸よりもまた跛、盲に遇はむ。ただ木(き)(紀)戸のみぞ、これ腋月(わきつき)の吉き戸ならむと卜(うら)ひて、出で行きたまふ時、坐(ま)す地ごとに品遅部(ほむぢべ)を定めたまひき。
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『古事記』中巻・白鳥となった倭建命の葬り爾して駅使を貢(たてまつ)り上りき。ここに倭に坐す后等、また御子等、諸々下り到りて、御陵を作りて、即ちその地の那豆岐田(なづきだ)を匍匐(はらば)ひ廻りて、哭(ね)き為して歌ひて曰はく、「なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひもとほろふ 野老蔓(ところづら)」。ここに八尋の白智鳥に化りて、天に翔りて浜に向きて飛び行きき。(智の字は音をもちてす。)爾してその后また御子等、その小竹の刈杙(かりくひ)に、足跳(あが)き破れども、その痛みを忘れて哭き追ひき。この時に歌ひて曰はく、「浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」。また、その海塩に入りて、なづみ(この三字は音をもちてす)行く時に歌ひて曰はく、「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がは いさよふ」。また、その磯に飛び居たる時に、歌ひて曰はく、「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」。この四歌は、皆その御葬に歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬に歌ふなり。かれその国より飛び翔りて行き、河内国の志幾(志紀)に留まりき。
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