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近思録 / 巻14 観聖賢

呂與叔撰明道先生哀辭云:先生負特立之才、知大學之要。博文強識、躬行力究。察倫明物、極其所止。渙然心釋、洞見道體。其造於約也、雖事變之感不一、知應以是心而不窮。雖天下之理至衆、知反之吾身而自足。其致於一也、異端並立而不能移。聖人復起而不與易。其養之成也、和氣充浹、見於聲容。然望之崇深、不可慢也。遇事優爲、從容不迫。然誠心懇惻、弗之措也。其自任之重也、寧學聖人而未至、不欲以一善而成名。寧以一物不被澤爲己病、不欲以一時之利爲己功。其自信之篤也、吾志可行、不苟潔其去就。吾義所安、雖小官有所不屑。呂與叔撰橫渠先生行狀云:康定用兵時、先生年十八、慨然以功名自許。上書謁范文正公。公知其遠器、欲成就之、乃責之曰:「儒者自有名教、何事於兵?」因勸讀《中庸》。先生讀其書、雖愛之、猶以爲未足。於是又訪諸釋老之書。累年、盡究其說。知無所得、反而求之六經。嘉佑初、見程伯淳正叔於京師、共語道學之要。先生渙然自信、曰:「吾道自足、何事旁求?」於是盡棄異學、淳如也。晚自崇文移疾西歸。橫渠終日危坐一室、左右簡編、俯而讀、仰而思。有得則識之。或中夜起坐、取燭以書。

新字:呂与叔撰明道先生哀辞云:先生負特立之才、知大学之要。博文強識、躬行力究。察倫明物、極其所止。渙然心釈、洞見道体。其造於約也、雖事変之感不一、知応以是心而不窮。雖天下之理至衆、知反之吾身而自足。其致於一也、異端並立而不能移。聖人復起而不与易。其養之成也、和気充浹、見於声容。然望之崇深、不可慢也。遇事優為、従容不迫。然誠心懇惻、弗之措也。其自任之重也、寧学聖人而未至、不欲以一善而成名。寧以一物不被沢為己病、不欲以一時之利為己功。其自信之篤也、吾志可行、不苟潔其去就。吾義所安、雖小官有所不屑。呂与叔撰横渠先生行状云:康定用兵時、先生年十八、慨然以功名自許。上書謁范文正公。公知其遠器、欲成就之、乃責之曰:「儒者自有名教、何事於兵?」因勧読《中庸》。先生読其書、雖愛之、猶以為未足。於是又訪諸釈老之書。累年、尽究其説。知無所得、反而求之六経。嘉佑初、見程伯淳正叔於京師、共語道学之要。先生渙然自信、曰:「吾道自足、何事旁求?」於是尽棄異学、淳如也。晩自崇文移疾西帰。横渠終日危坐一室、左右簡編、俯而読、仰而思。有得則識之。或中夜起坐、取燭以書。

書き下し

呂与叔明道先生の哀辞を撰して云う、先生は特立の才を負い、大学の要を知る。博文強識、躬行力究。倫を察し物を明らかにし、其の止まる所を極む。渙然として心釈け、洞(あき)らかに道体を見る。其の約に造(いた)るや、事変の感一ならずと雖も、応ずるに是の心を以てして窮まらざるを知る。天下の理至って衆しと雖も、之を吾が身に反して自ら足るを知る。其の一に致すや、異端並び立つも移す能わず。聖人復た起こるも与に易えず。其の養の成るや、和気充浹して、声容に見わる。然れども之を望めば崇深にして、慢るべからざるなり。事に遇いて優為し、従容として迫らず。然れども誠心懇惻、之を措かざるなり。其の自ら任ずるの重きや、寧ろ聖人を学びて未だ至らざるも、一善を以て名を成すを欲せず。寧ろ一物の沢を被らざるを以て己が病と為すも、一時の利を以て己が功と為すを欲せず。其の自ら信ずるの篤きや、吾が志行うべくんば、苟も其の去就を潔くせず。吾が義の安んずる所は、小官と雖も屑しとせざる所有り。呂与叔横渠先生の行状を撰して云う、康定兵を用うる時、先生年十八、慨然として功名を以て自ら許す。書を上りて范文正公に謁す。公其の遠器なるを知り、之を成就せんと欲し、乃ち之を責めて曰く、「儒者自ずから名教有り、何ぞ兵を事とせん」と。因りて《中庸》を読むを勧む。先生其の書を読み、之を愛すと雖も、猶お以て未だ足らずと為す。是に於いて又諸を釈老の書に訪ぬ。年を累ねて、尽く其の説を究む。得る所無きを知り、反りて之を六経に求む。嘉佑の初め、程伯淳・正叔に京師に見え、共に道学の要を語る。先生渙然として自ら信じ、曰く、「吾が道自ずから足る、何ぞ旁らに求むることを事とせん」と。是に於いて尽く異学を棄て、淳如たり。晩に崇文より疾と移して西に帰る。横渠にて終日一室に危坐し、左右に簡編あり、俯して読み、仰いで思う。得る有れば則ち之を識す。或いは中夜に起坐し、燭を取りて以て書す。

現代語訳

呂大臨(呂与叔、程門・張載門の弟子)が程顥(明道先生)の哀辞を著して言う。先生はひとり抜きん出た才を持ち、大いなる学問の要を知っていた。広く学び強く記憶し、身をもって行い力を尽くして究めた。人倫を察し物事を明らかにして、その止まるべきところを極めた。からりと心が解けて、道の本体をはっきり見た。要約されたところに到ると、物事の変化による感応は一様ではないが、この心で応じれば窮まることがないと知った。天下の理はきわめて多いが、それを自分の身に返せばおのずから足りると知った。一つに帰着させると、異端が並び立っても動かすことができず、聖人がふたたび現れても変えることはない。修養が完成すると、和やかな気が満ちあふれて、声や姿に現れた。しかし仰ぎ見れば高く深く、侮ることはできなかった。事に当たってはゆったりとこなし、落ち着いて慌てなかった。しかし誠の心は懇ろで痛切で、それを捨て置くことはなかった。自分に任じる重さは、聖人を学んでまだ至らないほうを選び、一つの善で名を成すことは望まなかった。一つの物でも恩沢を受けないものがあれば自分の病とし、一時の利益を自分の功績とすることは望まなかった。自分を信じる篤さは、自分の志が行えるなら、いたずらに去就を潔くして身を引くことはしなかった。自分の義が安んじるところであれば、小さな官職でも潔しとしないところがあった。呂大臨が張載(横渠先生)の行状を著して言う。康定年間(北宋、西夏との戦争の時期)に兵を用いたとき、先生は十八歳で、奮い立って功名を自分の任とした。書を奉って范仲淹(范文正公、北宋の名臣)に面会した。范公はその遠大な器を見抜き、これを成就させようと思い、責めて言った。「儒者にはおのずから名教(人倫の教え)がある。どうして兵事を務めるのか。」そして『中庸』を読むよう勧めた。先生はその書を読み、愛好したが、なお足りないと思った。そこでさらに仏教や老荘の書に求めた。何年もかけて、その説をすべて究めた。得るものがないと知り、返って六経に求めた。嘉祐年間の初め、都で程顥(伯淳)と程頤(正叔)に会い、ともに道学の要点を語り合った。先生はからりと自分に確信を持って言った。「我々の道はそれだけで足りている。どうしてわきに求める必要があろうか。」そこで異端の学問をすべて捨て、純粋になった。晩年、崇文院から病気を理由に西へ帰った。横渠で一日じゅう一室に正座し、左右に書物を置いて、うつむいては読み、仰いでは思った。得るところがあれば書き留めた。夜中に起き上がって座り、灯火を取って書くこともあった。

解説

呂大臨が書いた二つの文章からなる。前半は程顥の哀辞で、和気が声や姿にあふれながら侮れない高さがあったこと、聖人を学んで未だ至らない方を選び一善で名を成すことを望まなかったこと、一物でも恵みを受けなければ自分の病としたことを描く。後半は張載の行状で、十八歳で兵事の功名を志して范仲淹に会い、『中庸』を勧められ、仏老を遍歴したのち六経に返り、二程と語って「吾が道自ずから足る」と悟ったという。夜中に起きて灯をともし書き留める晩年の姿が印象的である。若い頃の挫折や回り道が、のちの確信を深くすることがある。遍歴を恐れず、最後に自分の拠り所へ戻る道のりは、職業人生にも重なる。

この章句が説くこと

聖賢自任横渠遍歴篤信

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