近思録 / 巻5 克己
周茂叔曰:何言之易也?但此心潛隱未發。一日萌動、復如前矣。後十二年因見、果知未也。伊川先生曰:大抵人有身、便有自私之理。宜其與道難。罪己責躬不可無、然亦不當長留在心胸爲悔。所欲不必沈溺、只有所向便是欲。明道先生曰:子路亦百世之師。人語言緊急、莫是氣不定否?曰:此亦當習。習到言語自然緩時、便是氣質變也。學至氣質變、方是有功。問:「不遷怒、不貳過」、何也?語錄有怒甲不遷乙之說、是否?伊川先生曰:是。曰:若此則甚易、何待顔子而後能?曰:只被說得粗了。諸君便道易、此莫是最難。須是理會得因何不遷怒、如舜之誅四凶。怒在四凶、舜何與焉?蓋因是人有可怒之事而怒之。聖人之心本無怒也。譬如明鏡、好物來時便見是好、惡物來時便見是怒。鏡何嘗有好惡也?世之人固有怒於室而色於市、且如怒一人、對那人說話、能無怒色否?有能怒一人、而不怒別人者、能忍得如此。已是煞知義理。若聖人因物而未嘗有怒、此莫是甚難。君子役物、小人役於物。今見可喜可怒之事、自家著一分陪奉他、此亦勞矣。聖人之心如止水。人之視最先。非禮而視、則所謂開目便錯了。次聽、次言、次動、有先後之序。
新字:周茂叔曰:何言之易也?但此心潜隠未発。一日萌動、復如前矣。後十二年因見、果知未也。伊川先生曰:大抵人有身、便有自私之理。宜其与道難。罪己責躬不可無、然亦不当長留在心胸為悔。所欲不必沈溺、只有所向便是欲。明道先生曰:子路亦百世之師。人語言緊急、莫是気不定否?曰:此亦当習。習到言語自然緩時、便是気質変也。学至気質変、方是有功。問:「不遷怒、不貳過」、何也?語録有怒甲不遷乙之説、是否?伊川先生曰:是。曰:若此則甚易、何待顔子而後能?曰:只被説得粗了。諸君便道易、此莫是最難。須是理会得因何不遷怒、如舜之誅四凶。怒在四凶、舜何与焉?蓋因是人有可怒之事而怒之。聖人之心本無怒也。譬如明鏡、好物来時便見是好、悪物来時便見是怒。鏡何嘗有好悪也?世之人固有怒於室而色於市、且如怒一人、対那人説話、能無怒色否?有能怒一人、而不怒別人者、能忍得如此。已是煞知義理。若聖人因物而未嘗有怒、此莫是甚難。君子役物、小人役於物。今見可喜可怒之事、自家著一分陪奉他、此亦労矣。聖人之心如止水。人之視最先。非礼而視、則所謂開目便錯了。次聴、次言、次動、有先後之序。
書き下し
周茂叔曰く、「何ぞ言の易きや。但だ此の心潜隠して未だ発せざるのみ。一日萌動すれば、復た前の如からん」と。後十二年、見るに因りて、果たして未だしきを知る。伊川先生曰く、大抵人に身有れば、便ち自私の理有り。宜なり其の道と難きこと。己を罪し躬を責むるは無かるべからず、然れども亦た当に長く心胸に留めて悔と為すべからず。欲する所必ずしも沈溺せず、只だ向かふ所有れば便ち是れ欲なり。明道先生曰く、子路も亦た百世の師なり。人の語言緊急なるは、是れ気定まらざる莫きや否や。曰く、此れも亦た当に習ふべし。習ひて言語自然に緩き時に到れば、便ち是れ気質変ずるなり。学んで気質変ずるに至りて、方に是れ功有り。問ふ、「『怒りを遷さず、過ちを弐びせず』とは、何ぞや。語録に甲に怒りて乙に遷さずの説有り、是なりや否や」と。伊川先生曰く、「是なり」と。曰く、「若し此くの如くんば則ち甚だ易し、何ぞ顔子を待ちて後に能くせん」と。曰く、「只だ説き得て粗了せらる。諸君便ち易しと道ふ、此れ是れ最も難き莫からんや。須らく是れ因何ぞ怒りを遷さざるかを理会し得べし、舜の四凶を誅するが如し。怒りは四凶に在り、舜何ぞ与らん。蓋し是の人怒るべきの事有るに因りて之を怒る。聖人の心は本より怒り無し。譬へば明鏡の如し、好物来たる時は便ち是れ好きを見、悪物来たる時は便ち是れ悪しきを見る。鏡何ぞ嘗て好悪有らんや。世の人固より室に怒りて市に色する有り、且つ一人に怒るが如き、那の人に対して説話するに、能く怒色無からんや。能く一人に怒りて、別人に怒らざる者有り、能く忍び得ること此くの如し。已に是れ煞だ義理を知る。聖人の物に因りて未だ嘗て怒り有らざるが若きは、此れ甚だ難き莫からんや。君子は物を役し、小人は物に役せらる。今喜ぶべく怒るべきの事を見て、自家一分を著けて他に陪奉す、此れも亦た労せり。聖人の心は止水の如し」と。人の視ること最も先なり。礼に非ずして視れば、則ち所謂目を開けば便ち錯り了る。次に聴、次に言、次に動、先後の序有り。
現代語訳
周茂叔(しゅうもしゅく、周敦頤の字)は言った。「なんと軽々しく言うものか。ただこの心が潜んで隠れ、まだ表に出ていないだけである。ある日芽生えて動き出せば、また元どおりになるだろう」。その後十二年たって、狩りを見る機会があり、果たしてまだ好みが消えていなかったことを知った。伊川先生は言った。およそ人に身体があれば、自分を私する理がある。道と相容れにくいのも当然である。自分を罪とし自分を責めることはなくてはならないが、それを長く胸に留めて悔いとしてはならない。欲とは、必ずしもおぼれることだけではない。ただ心が向かうところがあれば、それがもう欲である。明道先生は言った。子路(しろ、孔子の弟子)もまた百世の師である。問うた。人の話し方がせわしないのは、気が定まっていないからではないか。答えた。これもまた習わねばならない。習って言葉が自然にゆるやかになったとき、それが気質が変わったということである。学んで気質が変わるに至って、はじめて功があったと言える。問うた。「『怒りを他に移さず、同じ過ちを二度しない』とはどういうことか。語録に、甲に怒ってそれを乙に移さないという説があるが、それでよいか」。伊川先生は言った。「そのとおりである」。問うた。「もしそうなら甚だ易しい。どうして顔子を待ってはじめてできることなのか」。答えた。「ただ説明が粗くなってしまっただけだ。諸君はすぐに易しいと言うが、これこそ最も難しいことではないか。なぜ怒りを移さないのかを理解しなければならない。舜が四凶を誅したようなものである。怒りは四凶にあったのであって、舜が何を関与したであろうか。この人に怒るべき事があったので怒ったのである。聖人の心にはもともと怒りはない。たとえば明るい鏡のようなものである。良い物が来れば良いと映し、悪い物が来れば悪いと映す。鏡にどうして好き嫌いがあろうか。世の人には、もとより家の中で怒ってそれを市場で顔に出す者がいる。たとえば一人に怒っていて、別の人と話すとき、怒りの色を見せずにいられようか。一人に怒りながら他の人には怒らない者がいれば、それほど耐えられるのであり、もうかなり義理をわきまえている。聖人のように物に応じて怒りながら、心にはついぞ怒りがないというのは、それこそ甚だ難しいことではないか。君子は物を使い、小人は物に使われる。今、喜ぶべき事や怒るべき事を見て、自分の心を一分そこに付け足して付き合っている。これもまた疲れることである。聖人の心は静止した水のようである」。人が物を見ることは最も先である。礼にかなわずに見れば、いわゆる目を開いたとたんに誤ってしまう。次に聞くこと、次に言うこと、次に動くこと、と先後の順序がある。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻5 克己忿りを懲らし欲を窒ぎ過ぎたるを損し有余を抑ふるが如き是なり。不正の節は、用に嗇節し、行ひに懦節するが如き是なり。人にして克伐怨欲無きは、惟だ仁者のみ之を能くす。之有りて能く其の情を制して行はれざらしむ、斯れ亦た能くし難きなり。之を仁と謂ふは則ち未だ可ならざるなり。此れ原憲の問ひに、夫子答ふるに其の難きを為すを知るを以てす。而して其の仁たるを知らず。此れ聖人の開示の深きなり。明道先生曰く、義理と客気と常に相勝つ。只だ消長の分数の多少を看て、君子・小人の別と為す。義理の得る所漸く多ければ、則ち自然に客気の消散することの漸く少なきを知り得。消え尽くす者は是れ大賢なり。或ひと謂ふ、人は和柔寛緩を知らざる莫し、然れども事に臨めば則ち反つて暴厲に至ると。曰く、只だ是れ志気に勝たず、気反つて其の心を動かすなり。人の思慮を祛ふ能はざるは、只だ是れ吝なり。吝なるが故に浩然の気無し。怒りを治むるは難しと為し、懼れを治むるも亦た難し。克己は以て怒りを治むべく、明理は以て懼れを治むべし。堯夫「他山の石、以て玉を攻むべし」を解す。玉は温潤の物なり。若し両塊の玉を将ち来たりて相磨けば、必ず磨き成らず。須らく是れ他の箇の麄礪底の物を得て、方に磨き得出だすべし。譬へば君子の小人と処るが如し、小人の侵陵を為せば、則ち修省畏避し、心を動かし性を忍び、増益予防す。此くの如くして便ち道理出で来たる。目尖物を畏る。此の事放過するを得ず、便ち克し下す。室中率ね尖物を置き、須らく理を以て他に勝つべし。尖も必ずしも人を刺さざるなり、何の畏るること之れ有らん。明道先生曰く、上を責め下を責めて、中に自ら己を恕す。豈に職分に任ずべけんや。「己を舎てて人に従ふ」は、最も難事と為す。己とは我の有する所、痛く之を舎つと雖も、猶ほ己を守る者固くして、人に従ふ者軽きを懼るるなり。「饑ゑて食ひ渇して飲み、冬は裘夏は葛」、若し些の私吝の心在るを致さば、便ち是れ天職を廃す。猟、自ら謂ふ今此の好み無しと。
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『近思録』巻5 克己人能く己に克てば、則ち心広く体胖かなり。仰ぎて愧ぢず、俯して怍ぢず。其の楽しみ知るべし。息む有れば則ち餒う。聖人は己を責むること感の処多く、人を責むること応の処少なし。謝子伊川と別るること一年、往きて之に見ゆ。伊川曰く、「相別るること一年、甚の工夫をか做し得たる」と。謝曰く、「也た只だ箇の矜の字を去るのみ」と。曰く、「何の故ぞ」と。曰く、「子細に検点し得来たれば、病痛尽く這裏に在り。若し這箇の罪過を按伏し得れば、方に尽くるに向かふ処有り」と。伊川点頭し、因りて坐に在る同志の者に語りて曰く、「此の人の学を為す、切に問ひて近く思ふ者なり」と。思叔僕夫を詬詈す、伊川曰く、「何ぞ『心を動かし性を忍』ばざる」と。思叔慙謝す。賢を見ては便ち斉しからんことを思ふ、為す有る者も亦た是くの若し。不賢を見ては内に自ら省みる、蓋し己に在らざるは莫し。横渠先生曰く、湛一は気の本、攻取は気の欲なり。口腹の飲食に於ける、鼻口の臭味に於ける、皆攻取の性なり。徳を知る者は厭くに属するのみ。嗜欲を以て其の心を累はさず、小を以て大を害せず、末もて本を喪はざるのみ。繊悪必ず除けば、善斯に性を成す。悪を察すること未だ尽くさざれば、善と雖も必ず粗なり。不仁を悪む、故に不善未だ嘗て知らずんばあらず。徒だ仁を好みて不仁を悪まざれば、則ち習ひて察せず、行ひて著らかならず。是の故に、徒善は未だ必ずしも義を尽くさず、徒是は未だ必ずしも仁を尽くさず。仁を好みて不仁を悪みて、然る後に仁義の道を尽くす。己を責むる者は当に天下国家皆非なるの理無きを知るべし。故に学んで人を尤めざるに至るは、学の至りなり。道に潜心する有りて、怱怱として他慮の為に引き去らるる者は、此れ気なり。旧習纏繞して、未だ脱洒する能はず、畢竟益無し。但だ旧習を楽しむのみ。古人は朋友と琴瑟簡編とを得んと欲し、常に心をして此に在らしむ。惟だ聖人のみ朋友の益を取ること多きを為すを知る。故に朋友の来たるを楽しむ。仁の成り難きこと久し。
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『近思録』巻2 為学孟氏も亦た曰く、「智を悪む所の者は、其の鑿つが為なり」と。其の外を非として内を是とせんよりは、内外の両(ふた)つながら忘るるに若かざるなり。両つながら忘るれば則ち澄然として事無し。事無ければ則ち定まり、定まれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち尚ほ何ぞ物に応ずるを之れ累と為さんや。聖人の喜ぶは、物の当に喜ぶべきを以てなり。聖人の怒るは、物の当に怒るべきを以てなり。是れ聖人の喜怒は、心に繋らずして、物に繋るなり。是れ則ち聖人豈に物に応ぜざらんや。烏んぞ外に従ふ者を以て非と為して、更に内に在る者を求めて是と為すを得んや。今自私用智の喜怒を以てして、聖人の喜怒の正を視るに如何と為すや。夫れ人の情の発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。第(ただ)能く怒る時に於て遽かに其の怒りを忘れて、理の是非を観れば、亦た外誘の悪むに足らざるを見るべくして、道に於ても亦た思ひ半ばに過ぎん。伊川先生朱長文に答ふる書に曰く、聖賢の言は已むを得ざるなり。蓋し是の言有れば則ち是の理明らかに、是の言無ければ則ち天性の理闕くる有り。彼の耒耜陶冶の器の如き、一つ制せざれば則ち生人の道足らざる有り。聖賢の言、已めんと欲すと雖も得んや。然れども其の包涵は天下の理を尽くして、亦た甚だ約なり。後の人始めて巻を執れば則ち文章を以て先と為す。平生為す所、動もすれば聖人より多し。然れども之有るも補ふ所無く、之無きも闕く所靡し、乃ち無用の贅言なり。止だ贅なるのみならず、既に其の要を得ざれば、則ち真を離れ正を失ひて、反って道を害すること必せり。来書に所謂後人をして其の善を忘れざるを見しめんと欲すとは、此れ乃ち世人の私心なり。夫子の世を没へて名の称せられざるを疾むとは、身を没ふるまで善の称すべき無きを疾むと云ふのみ、名無きを疾むを謂ふに非ざるなり。名は以て中人を厲ますべし。君子の存する所は、汲汲とする所に非ず。内に忠信を積むは、徳に進む所以なり。言を択び志を篤くするは、業に居る所以なり。
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『近思録』巻5 克己濂溪先生曰く、孟子曰く、「心を養ふは寡欲より善きは莫し」と。予謂へらく心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無きに至る、無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。伊川先生曰く、顔淵克己復礼の目を問ふ、夫子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言ふこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ」と。四者は身の用なり。中に由りて外に応ず。外を制するは其の中を養ふ所以なり。顔淵斯の語を事とす、聖人に進む所以なり。後の聖人を学ぶ者、宜しく服膺して失ふ勿かるべし。因りて箴して以て自ら警む。『視箴』に曰く、心や本虚、物に応じて迹無し。之を操るに要有り、視之が則と為る。蔽前に交はれば、其の中則ち遷る。之を外に制して、以て其の内を安んず。克己復礼、久しくして誠なり。『聴箴』に曰く、人に秉彝有り、天性に本づく。知誘はれ物化して、遂に其の正を亡ふ。卓たる彼の先覚、止まるを知りて定まる有り。邪を閑ぎ誠を存し、礼に非ざれば聴くこと勿かれ。『言箴』に曰く、人心の動くは、言に因りて以て宣ぶ。発するに躁妄を禁ずれば、内斯に静専なり。矧んや是れ枢機、戎を興し好を出だす。吉凶栄辱、惟れ其の召く所なり。易きに傷めば則ち誕、煩に傷めば則ち支なり。己肆なれば物忤ひ、出づること悖れば来たること違ふ。法に非ざれば道はず、欽まんや訓辞。『動箴』に曰く、哲人は幾を知り、之を思ひに誠にす。志士は行ひを厲まし、之を為すに守る。理に順へば則ち裕かに、欲に従へば惟れ危し。造次にも克く念ひ、戦兢として自ら持す。習ひ性と成れば、聖賢同じく帰す。復の初九に曰く、「遠からずして復る、悔に祗る無し、元吉なり」と。伝に曰く、陽は、君子の道なり。故に復は善に反るの義たり。初は復の最も先なる者なり。是れ遠からずして復るなり。失ひて後に復る有り、失はずんば則ち何の復か之れ有らん。惟だ之を失ふこと遠からずして復れば、則ち悔に至らず、大善にして吉なり。顔子は形顕の過ち無し、夫子其の庶幾きを謂ふ、乃ち悔に祗る無きなり。
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『近思録』巻4 存養明道先生曰く、某字を写す時甚だ敬す。是れ字の好きを要むるに非ず、只だ此れ是れ学なり。伊川先生曰く、聖人は事を記せず、所以に常に記し得。今人事を忘るるは、其の事を記するを以てなり。事を記する能はず、事を処すること精ならざるは、皆養ふことの完固ならざるより出づ。明道先生澶州に在りし日に橋を修め、一の長梁を少き、曾て博く民間に求む。後に出入に因りて、林木の佳き者を見れば、必ず計度の心を起こす。因りて以て学者を戒むるに、心に一事有るべからずと語る。伊川先生曰く、道に入るは敬に如くは莫し。未だ能く知を致して敬に在らざる者有らず。今人主心定まらず、心を視ること寇賊の如くにして制すべからず。是れ事の心を累はすにあらず、乃ち是れ心の事を累はすなり。当に知るべし、天下に一物として是れ少き得るに合ふ者無く、悪むべからざるなり。人只だ一箇の天理有り、却つて存し得る能はず。更に甚の人と做らんや。人多く思慮して、自ら寧んずる能はず。只だ是れ他の心の主定まらざるを做すのみ。心の主定まることを作し得んと要せば、惟だ是れ事に止まるのみ。人君と為りては仁に止まるの類なり。舜の四凶を誅するが如し。四凶已に悪を作し、舜従ひて之を誅す。舜何ぞ与らんや。人事に止まらず、只だ是れ他の事を攬りて、物をして各おの物に付せしむる能はず。物各おの物に付せば、則ち是れ物を役す。物の役する所と為れば、則ち是れ物に役せらるるなり。「物有れば必ず則有り」、須らく是れ事に止まるべし。
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