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近思録 / 巻3 致知

先生曰:凡說經義、如只管節節推上去、可知是盡。夫「終日乾乾」、未盡得易。據此一句、只做得九三使。若謂乾乾是不已、不已又是道、漸漸推去、自然是盡。只是理不如此。子在川上曰:「逝者如斯夫!」言道之體如此。這裏須是自見得。張繹曰:此便是無窮。先生曰:固是道無窮。然怎生一箇無窮、便道了得他?今人不會讀書。如「誦詩三百、授之以政、不達。使於四方、不能專對、雖多亦奚以爲?」須是未讀詩時、不達於政、不能專對。既讀詩後、便達於政、能專對四方、始是讀詩。「人而不爲周南召南、其猶正牆面。」須是未讀詩時如面墻。到讀了後便不面墻、方是有驗。大抵讀書只此便是法。如讀《論語》、舊時未讀、是這箇人。及讀了、後來又只是這箇人、便是不曾讀也。凡看文字、如七年一世百年之事、皆當思其如何作爲、乃有益。凡解經不同無害、但緊要處不可不同爾。

新字:先生曰:凡説経義、如只管節節推上去、可知是尽。夫「終日乾乾」、未尽得易。拠此一句、只做得九三使。若謂乾乾是不已、不已又是道、漸漸推去、自然是尽。只是理不如此。子在川上曰:「逝者如斯夫!」言道之体如此。這裏須是自見得。張繹曰:此便是無窮。先生曰:固是道無窮。然怎生一箇無窮、便道了得他?今人不会読書。如「誦詩三百、授之以政、不達。使於四方、不能専対、雖多亦奚以為?」須是未読詩時、不達於政、不能専対。既読詩後、便達於政、能専対四方、始是読詩。「人而不為周南召南、其猶正牆面。」須是未読詩時如面墻。到読了後便不面墻、方是有験。大抵読書只此便是法。如読《論語》、旧時未読、是這箇人。及読了、後来又只是這箇人、便是不曽読也。凡看文字、如七年一世百年之事、皆当思其如何作為、乃有益。凡解経不同無害、但緊要処不可不同爾。

書き下し

先生曰く、凡そ経義を説くに、只管に節節推し上げ去るが如きは、是れ尽くすと知るべし。夫れ「終日乾乾」は、未だ易を尽くし得ず。此の一句に拠れば、只だ九三の使(はたらき)を做し得るのみ。若し乾乾は是れ已まず、已まざるは又是れ道なりと謂ひて、漸漸に推し去れば、自然に是れ尽くす。只だ是れ理は此の如くならず。子川の上に在りて曰く、「逝く者は斯くの如きか」と。道の体此の如きを言ふ。這裏は須らく是れ自ら見得べし。張繹曰く、此れ便ち是れ無窮なり。先生曰く、固より是れ道は無窮なり。然れども怎生ぞ一箇の無窮にて、便ち他を道ひ了り得んや。今人は書を読むことを会(よ)くせず。「詩三百を誦するも、之に授くるに政を以てして、達せず。四方に使ひして、専対すること能はずんば、多しと雖も亦た奚を以て為さん」の如き、須らく是れ未だ詩を読まざる時は、政に達せず、専対すること能はず。既に詩を読みて後、便ち政に達し、能く四方に専対して、始めて是れ詩を読むなるべし。「人にして周南召南を為(まな)ばずんば、其れ猶ほ正しく牆に面するがごとし」。須らく是れ未だ詩を読まざる時は面墻の如く、読み了りて後に到りて便ち面墻ならずして、方に是れ験有るべし。大抵書を読むは只だ此れ便ち是れ法なり。論語を読むが如き、旧時未だ読まざるときは、是れ這箇の人なり。読み了るに及びて、後来又只だ是れ這箇の人ならば、便ち是れ曾て読まざるなり。凡そ文字を看るに、七年一世百年の事の如きは、皆当に其の如何に作為するかを思ふべし、乃ち益有り。凡そ経を解して同じからざるは害無し、但だ緊要の処は同じからざるべからざるのみ。

現代語訳

先生(程頤)は言った。およそ経書の意義を説くのに、一節ずつひたすら推し上げていくようなやり方なら、それで尽くせると分かるだろう。そもそも「終日乾乾」の一句では、易を尽くすことはできない。この一句によれば、ただ九三の爻のはたらきを説明できるだけである。もし、乾乾とはやまないことであり、やまないことはまた道である、と少しずつ推していけば、自然に尽くすことになる。ただ理はそういうものではない。孔子は川のほとりで「過ぎ去るものはこのようであるか」と言った。これは道の本体がこのようであることを言ったのである。ここは自分で見て取らなければならない。張繹(程頤の弟子)が言った。これはつまり無窮ということですね。先生は言った。もちろん道は無窮である。しかしどうして「無窮」という一語で、それを言い尽くすことができようか。今の人は書物を読むことができていない。『論語』に「詩三百篇を暗誦していても、政治を任せて通じず、四方に使いに出て独りで応対できないなら、いくら多く覚えていても何になろうか」とあるが、詩を読む前は政治に通じず応対できなかったのが、詩を読んだあとには政治に通じ、四方に独りで応対できるようになって、はじめて詩を読んだと言えるのである。また「人として周南・召南を学ばなければ、まるで塀に正面から向かって立っているようなものだ」とあるが、詩を読む前は塀に向かっているようだったのが、読み終えたあとには塀に向かっているようでなくなってこそ、効き目があったと言える。おおよそ書物を読むのは、ただこれが方法である。『論語』を読むにしても、読む前にこういう人であったのが、読み終えたあとにもまたただこういう人のままであれば、それは読まなかったのと同じである。およそ文章を読むとき、たとえば『論語』の「七年」「一世」「百年」の事などは、みな自分ならどのように行うかを考えなければならない。そうしてはじめて益がある。およそ経書の解釈が人と違っても害はない。ただ肝心なところは違ってはならない。

解説

程頤の読書論の続きである。一句から推論を重ねて易の全体を説明しようとするやり方を退け、「逝く者は斯くの如きか」についても、無窮という一語で片づけず、自ら見て取れと弟子に求める。最も有名なのは、『論語』を読む前と読んだ後で同じ人間のままなら読まなかったのと同じだという言葉である。詩を読んだ後に政治に通じ、使者として応対できるようになって初めて詩を読んだと言えるとし、読書の効果を人の変化で測る。朱熹はこの条を『論語集注』の序説にも引いて重んじた。研修や読書の後で行動が何も変わっていなければ学んだことにならない、という基準は、今の職場の学習にもそのまま当てはまる厳しいものさしである。

この章句が説くこと

読書法論語変化無窮経義

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