近思録 / 巻3 致知
淳初到、問爲學之方。先生曰:公要知爲學須是讀書。書不必多看、要知其約。多看而不知其約、書肆耳。頤緣少時讀書貪多、如今多忘了。須是將聖人言語玩味、入心記著、然後力去行之、自有所得。
新字:淳初到、問為学之方。先生曰:公要知為学須是読書。書不必多看、要知其約。多看而不知其約、書肆耳。頤縁少時読書貪多、如今多忘了。須是将聖人言語玩味、入心記著、然後力去行之、自有所得。
書き下し
淳初めて到り、学を為すの方を問う。先生曰く、公、学を為すを知らんと要さば、須らく是れ書を読むべし。書は必ずしも多く看ず、その約を知らんことを要す。多く看てその約を知らざれば、書肆のみ。頤、少き時に書を読みて多きを貪るに縁り、如今多く忘れ了れり。須らく是れ聖人の言語を将て玩味し、心に入れ記著し、然る後に力めて去りてこれを行うべし。自ら得る所有らん。
現代語訳
淳が初めて訪れて、学問のやり方を尋ねた。先生が言った。あなたが学問を知ろうとするなら、書を読まねばならない。だが書は多く読む必要はない、その要点を知ることこそ必要だ。多く読んでも要点を知らなければ、ただの本屋である。私は若いころ多読を貪ったので、いまは多くを忘れてしまった。聖人の言葉をよく味わい、心に入れて記憶し、そのうえで努めて実行するのがよい。おのずから得るところがあるだろう。
解説
多読を戒める一条だが、根拠が本人の後悔になっているところが率直である。若いころ多読を貪ったから、いまは多く忘れてしまった、と程頤自身が言う。そして「多く看てその約を知らざれば、書肆のみ」——要点をつかまない多読は本屋と同じだ、という一句が強い。処方は三段になっている。よく味わう、心に入れて覚える、そのうえで努めて実行する。読むことが目的ではなく、行うところまで含めて学びとされる。読書量を実績と勘違いしやすい今日でも、そのまま効く。
この章句が説くこと
書は必ずしも多く看ずその約を知る書肆のみ玩味して力めて行う
関連する章句
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『近思録』巻3 致知此の巻は致知を論ず。知の至りて、而る後に以て之を行ふ有り。首段より二十二段に至るまでは、総べて致知の方を論ず。然れども致知は読書より大なるは莫し、二十三段より三十三段に至るまでは、総べて読書の法を論じ、三十四段以後は、乃ち分けて読書の法を論じて、書の先後を以て序と為す。大学に始め、学を為すの規模次序を知らしめて、而る後に之に継ぐに論孟詩書を以てす。義理中に充足すれば、則ち大本一原の妙を探るべし、故に之に継ぐに中庸を以てす。本原に達すれば、則ち以て「神を窮め化を知る」べし、故に之に継ぐに易を以てす。理の明らかに、義の精しくして、造化の蘊に達すれば、則ち以て聖人の大用を識るべし、故に之に継ぐに春秋を以てす。春秋の用に明らかなれば、則ち推して以て史を観て、其の是非得失の致を弁ずべし。横渠の易説以下は、則ち仍ほ語録の序にして、周官の義因りて以て具はる。伊川先生朱長文に答ふる書に曰く、心道に通じて、然る後に能く是非を弁ずること、権衡を持して以て軽重を較ぶるが如し。孟子の所謂「言を知る」是れなり。心道に通ぜずして、古人の是非を較ぶるは、猶ほ権衡を持せずして軽重を酌むがごとし。其の目力を竭くし、其の心智を労し、時に中らしむと雖も、亦た古人の所謂「億(はか)れば則ち屢々中る」なり。君子は貴ばざるなり。伊川先生門人に答へて曰く、孔孟の門、豈に皆賢哲ならんや。固より衆人多し。衆人を以て聖賢を観れば、識らざる者多し。惟だ其の敢へて己を信ぜずして其の師を信ず、是の故に求めて後に得。今諸君頤の言に於て纔かに合はざれば則ち置きて復た思はず。終に異なる所以なり。便ち放下すべからず。更に且く之を思へ、致知の方なり。伊川先生横渠先生に答へて曰く、論ずる所の大概、苦心極力の象有りて、寛裕温厚の気無し。
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『近思録』巻3 致知凡そ思ひを致して説き得ざる処に到りて、始めて復た審らかに思ひ明らかに弁ず、乃ち善く学ぶと為す。告子の若きは則ち説き得ざる処に到りて遂に已み、更に復た求めず。伊川先生曰く、凡そ文字を看るには、先づ須らく其の文義を暁りて、然る後に其の意を求むべし。未だ文義暁らずして、意を見る者有らざるなり。学者は自得せんことを要す。六経は浩渺として、乍ち来たりて尽く暁り難し。且く路径を見得て後、各自ら一箇の門庭を立て得て、帰りて之を求めて可なり。凡そ文字を解するは、但だ其の心を易くすれば自ら理を見る。理は只だ是れ人理甚だ分明なり、一条の平坦底の道路の如し。詩に曰く、「周道は砥の如く、其の直きこと矢の如し」と。此の謂なり。或るひと曰く、聖人の言は、恐らくは浅近を以て他を看るべからず。曰く、聖人の言は、自ら近き処有り、自ら深遠なる処有り。近き処の如きは怎生(いかん)ぞ強ひて鑿ちて深遠ならしめ得んや。揚子曰く、「聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し」と。頤之を改めて曰く、聖人の言は、其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し。学者の文義に泥まざる者は、又全く背き却きて遠く去る。文義を理会する者は、又滞泥して通ぜず。子濯孺子の将たるの事の如き、孟子は只だ其の師に背かざるの意を取るのみ。人は須らく上面に就きて君に事ふるの道の如何なるかを理会すべし。又万章の舜の廩を完くし井を浚ふの事を問ふが如き。孟子は只だ他に大意を答ふるのみ。人須らく井を浚ひて如何にして出で得来たり、廩を完くして又怎生にして下り得来たるかを理会せんことを要せば、此くの若きの学は、徒に心力を費やすのみ。凡そ書を観るに相類を以て其の義に泥むべからず。爾らずんば、則ち字字相梗(ふさ)がる。当に其の文勢上下の意を観るべし、「充実せる之を美と謂ふ」の如き、詩の「美」と同じからず。問ふ、瑩中嘗て文中子を愛す、或るひと易を学ぶを問ふ。子曰く、「終日乾乾」にして可なりと。此の語最も尽くせり。文王の聖なる所以も、亦た只だ是れ箇の已まざるなり。
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『近思録』巻3 致知明睿の照らす所に非ずして、考索此に至る。故に意屢々偏りて、言多く窒がり、小出入時に之有り。更に願はくは思慮を完養し、義理に涵泳せよ。他日自ら当に条暢すべし。得ると得ざるとを知らんと欲せば、心気の上に於て之を験せ。思慮得る有りて、中心悦豫し、沛然として裕か有る者は、実に得たるなり。思慮得る有るも、心気労耗する者は、実に未だ得ざるなり、強ひて揣度するのみ。嘗て人の言ふ有り、比(このごろ)学道に因りて、思慮心虚すと。曰く、人の血気は、固より虚実有り。疾病の来たるは、聖賢も免れざる所なり。然れども未だ古より聖賢の、学に因りて心疾を致す者を聞かず。今日鬼怪異説を雑信する者は、只だ是れ先づ理を燭らさざればなり。若し事上に於て一一理会せば、則ち甚の尽くる期か有らん。須らく只だ学上に於て理会すべし。所謂「日月に至る」と、久しくして息まざる者とは、見る所の規模略々相似たりと雖も、其の意味気象は迥かに別なり。須らく潜心黙識し、玩索すること之を久しくすべし、庶幾はくは自得せん。学者聖人を学ばざれば則ち已む。之を学ばんと欲せば、須らく熟く聖人の気象を玩味すべし。只だ名の上に於て理会すべからず。此の如くんば只だ是れ文字を講論するのみ。問ふ、忠信進徳の事は、固より勉強すべし。然れども致知は甚だ難し。伊川先生曰く、学者は固より当に勉強すべし、然れども須らく是れ知り了りて方に行ひ得べし。若し知らずんば只だ是れ堯を覻却して、他の行事を学ぶのみ。堯の許多の聡明睿智無くして、怎生(いかん)ぞ他の如く動容周旋礼に中るを得ん。子の言ふ所の如きは、是れ篤く信じて固く之を守るにして、固より之を有するに非ざるなり。未だ知を致さずして、便ち意を誠にせんと欲するは、是れ等を躐ゆるなり。勉強して行ふ者、安んぞ能く持久せん。除非(ただ)理を燭らすこと明らかなれば、自然に理に循ふを楽しむ。性は本善なり。理に循ひて行ふは、是れ理に順ふの事なり。本亦た難からず。但だ人知らずして、旋(にはか)に安排著するが為に、便ち難しと道ふなり。知に多少の般数有り、煞(はなは)だ深浅有り。学者須らく是れ真に知るべし、纔かに是なるを知り得れば、便ち泰然として行ひ将ち去るなり。某年二十の時、経義を解釈するは、今と異なる無し。然れども今日を思へば意味少時と自ら別なるを覚ゆ。
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『近思録』巻3 致知夫れ詩人の志は至って平易なり、必ずしも艱険を為して之を求めず。今艱険を以て詩を求むれば、則ち已に其の本心を喪ふ。何に由りてか詩人の志を見ん。尚書は看難し、蓋し胸臆の此の如く大なるを得難ければなり。只だ義を解せんと欲すれば、則ち難きこと無きなり。書を読むこと少なければ、則ち由りて精義を考校し得る無し。蓋し書は以て此の心を維持す、一時放下すれば、則ち一時徳性に懈り有り。書を読めば則ち此の心常に在り、書を読まざれば則ち終に義理を看て見ず。書は須らく誦を成すべし。精思は多く夜中に在り、或いは静坐して之を得。記せざれば則ち思ひ起こらず。但だ大原を貫通し得て後は、書も亦た記し易し。書を観る所以の者は、己の疑ひを釈き、己の未だ達せざるを明らかにするなり。見る毎に知ること新たにして益あらば、則ち学進む。疑はざる処に於て疑ひ有りて、方に是れ進むなり。六経は須らく循環して理会すべし。義理は儘く窮まり無し、自家の長じて一格を得るを待てば、則ち又見得ること別なり。中庸の文字の輩の如きは、直に須らく句句理会し過ぎて、其の言をして互ひに相発明せしむべし。春秋の書は、古に在りて有ること無し。乃ち仲尼の自ら作る所なり。惟だ孟子のみ能く之を知る。理明らかに義精しきに非ざれば、殆ど未だ学ぶべからず。先儒未だ此に及ばずして之を治む、故に其の説多く鑿つ。
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『近思録』巻3 致知先生曰く、凡そ経義を説くに、只管に節節推し上げ去るが如きは、是れ尽くすと知るべし。夫れ「終日乾乾」は、未だ易を尽くし得ず。此の一句に拠れば、只だ九三の使(はたらき)を做し得るのみ。若し乾乾は是れ已まず、已まざるは又是れ道なりと謂ひて、漸漸に推し去れば、自然に是れ尽くす。只だ是れ理は此の如くならず。子川の上に在りて曰く、「逝く者は斯くの如きか」と。道の体此の如きを言ふ。這裏は須らく是れ自ら見得べし。張繹曰く、此れ便ち是れ無窮なり。先生曰く、固より是れ道は無窮なり。然れども怎生ぞ一箇の無窮にて、便ち他を道ひ了り得んや。今人は書を読むことを会(よ)くせず。「詩三百を誦するも、之に授くるに政を以てして、達せず。四方に使ひして、専対すること能はずんば、多しと雖も亦た奚を以て為さん」の如き、須らく是れ未だ詩を読まざる時は、政に達せず、専対すること能はず。既に詩を読みて後、便ち政に達し、能く四方に専対して、始めて是れ詩を読むなるべし。「人にして周南召南を為(まな)ばずんば、其れ猶ほ正しく牆に面するがごとし」。須らく是れ未だ詩を読まざる時は面墻の如く、読み了りて後に到りて便ち面墻ならずして、方に是れ験有るべし。大抵書を読むは只だ此れ便ち是れ法なり。論語を読むが如き、旧時未だ読まざるときは、是れ這箇の人なり。読み了るに及びて、後来又只だ是れ這箇の人ならば、便ち是れ曾て読まざるなり。凡そ文字を看るに、七年一世百年の事の如きは、皆当に其の如何に作為するかを思ふべし、乃ち益有り。凡そ経を解して同じからざるは害無し、但だ緊要の処は同じからざるべからざるのみ。
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『近思録』巻3 致知凡そ史を読むには徒に事迹を記するを要とせず、須らく其の治乱安危興廃存亡の理を識らんことを要すべし。且つ高帝紀を読むが如き、便ち須らく漢家四百年の終始治乱の当に如何なるべきかを識り得べし。是れ亦た学なり。先生毎に史を読むに、一半に到れば、便ち巻を掩ひて思量し、其の成敗を料りて、然る後に却って看る。合はざる処有れば、又更に精思す。其の間多く幸ひにして成り、不幸にして敗るる有り。今人は只だ成る者を見れば便ち以て是と為し、敗るる者をば便ち以て非と為す。知らず成る者に煞(はなは)だ是ならざる有り、敗るる者に煞だ是なる底有ることを。史を読むには須らく聖賢の存する所の治乱の機、賢人君子の出処進退を見るべし、便ち是れ格物なり。元祐中客に伊川に見ゆる者有り、几案の間に他書無く、惟だ印行の唐鑑一部のみ。先生曰く、近く方に此の書を見る。三代以後此の議論無し。横渠先生曰く、序卦は聖人の縕に非ずと謂ふべからず。今一物を安置せんと欲するも、猶ほ審らかに処らんことを求む。況んや聖人の易に於けるをや、其の間極至の精義無しと雖も、大概皆意思有り。聖人の書を観るに、須らく遍布細密なること是の如くなるべし。大匠豈に一斧を以て知るべけんや。天官の職は、須らく襟懐洪大にして、方に看ることを得べし。蓋し其の規模至大なり、若し此の心を得ずして、事事の上に曲を致して窮究し、此の心の是の如く大なるを湊合せんと欲するも、必ず得ること能はざるなり。釈氏は天地を錙銖にす、至大と謂ふべし。然れども嘗て大を為さざれば、則ち事を為し得ず。若し之に一銭を畀ふれば、則ち必ず乱れん。又曰く、太宰の職は看難し。蓋し許大の心胸の包羅する無ければなり。此を記し得れば、復た彼を忘る。其の天下の事を混混たる、当に龍蛇を捕へ虎豹を搏つが如くすべし。心力を用ひて看て方に可なり。其の他の五官は便ち看易し、止だ一職のみなればなり。古人の能く詩を知る者は惟だ孟子のみ。其の意を以て志を逆ふるが為なり。
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