肝要工夫録 / 神仏への信心
神佛を信心すべきこと、おのれが心を正直にして、天照皇太神宮、東照宮、家の鎭守あらば其神なり。又佛といふは、我が先祖なり。その餘は、聖人のいたく戒め給ふ、其鬼に非ずして之を祭るは諂ふといふ者なり。されば月々前日より愼みて、十七日には、上野御宮、又は芝安國殿へ拜禮に出づべき事なり、(安國殿は、卑賤のものといへども、參詣出來ることなり。)また己が先祖の墓所へ月々に參詣し、朝暮には佛間に拜し、物の初穗など備へて、在すがごとく尊信すべきことなり。和論語の神詫を見るに、何れの神慮も慈悲と正直の二つに過ぎず、故に邪の願をなして、慈悲正直のこころなきものは、何ぞ利益のあるべきか。
新字:神仏を信心すべきこと、おのれが心を正直にして、天照皇太神宮、東照宮、家の鎮守あらば其神なり。又仏といふは、我が先祖なり。その余は、聖人のいたく戒め給ふ、其鬼に非ずして之を祭るは諂ふといふ者なり。されば月々前日より慎みて、十七日には、上野御宮、又は芝安国殿へ拝礼に出づべき事なり、(安国殿は、卑賤のものといへども、参詣出来ることなり。)また己が先祖の墓所へ月々に参詣し、朝暮には仏間に拝し、物の初穂など備へて、在すがごとく尊信すべきことなり。和論語の神詫を見るに、何れの神慮も慈悲と正直の二つに過ぎず、故に邪の願をなして、慈悲正直のこころなきものは、何ぞ利益のあるべきか。
書き下し
神佛を信心すべきこと、おのれが心を正直にして、天照皇太神宮、東照宮、家の鎭守あらば其神なり。又佛といふは、我が先祖なり。その餘は、聖人のいたく戒め給ふ、其鬼に非ずして之を祭るは諂ふといふ者なり。されば月々前日より愼みて、十七日には、上野御宮、又は芝安國殿へ拜禮に出づべき事なり、(安國殿は、卑賤のものといへども、參詣出來ることなり。)また己が先祖の墓所へ月々に參詣し、朝暮には佛間に拜し、物の初穗など備へて、在すがごとく尊信すべきことなり。和論語の神詫を見るに、何れの神慮も慈悲と正直の二つに過ぎず、故に邪の願をなして、慈悲正直のこころなきものは、何ぞ利益のあるべきか。
現代語訳
神仏を信心するには、自分の心を正直にして、天照皇太神宮、東照宮、家の鎮守があればその神を拝みます。また仏とは自分の先祖のことです。そのほかは、聖人がひどく戒められた、祭るべき鬼でないのに祭るのは諂いというものです。ですから、毎月前日から慎み、十七日には上野の御宮、または芝の安国殿へ拝礼に出るべきです。(安国殿は卑賤の者でも参詣できます。)また自分の先祖の墓所へ毎月参詣し、朝夕には仏間で拝し、物の初穂などを供えて、いらっしゃるように尊び信じるべきです。『和論語』の神託を見ると、どの神の御心も慈悲と正直の二つに過ぎません。ですから、邪な願いをして慈悲と正直の心がない者に、どうして利益があるでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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『肝要工夫録』・神仏は目前にありこれを以て、この二つを肝要の工夫とすること、神佛を祈念するの基なるべし。且つ又他の神佛を信ずるとも、心正直にして、その祈る神佛の目前にいますが如く思ひて信心せば可なり。いかむとなれば、その神佛のまのあたり見聞して居給ふやうに思ふ故、邪曲のをこなひあらば、その神佛の誠もあらむかと、をのづから、其身をも愼むものなり。然れども、流行神など信ずるは、俗中の俗にして、論なし。唯だ專らに、今生神生佛の主君父母に心力をつくし、忠孝の二つ□以て、信心するに若くはなし。眼前に利益ありて、天より福を降し給ふ事と知るべし。
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『竹馬抄』・神仏の本意を心得る一佛神をあがめたてまつるべきことは人として存べき事なればあたらしく申べからず、その中にいささか心得わくべき事の侍るなり、佛の出世と云も神の化現と云も、しかしながら世のため人のためなり、されば人をあしかれとにはあらず、心をいさぎよくして仁義禮智信をたゞしくして本を明めさせんがためなり、そのほかにはなにのせんにか出現したまふべき、此本ゐを心得ぬほどに佛を信ずるとて、人民をわづらはしひとの物をとり寺院を作り、或は神を敬ふと云て人類を追捕して【祀/祉】禮を行事のみ侍る、かやうならんには佛事も神事もそむき侍るべきとこそ覺侍る、たとひ一度のつとめをもせず、一度の社參をばせずとも、心正直に慈悲あらん人を、神も佛もおろかには見そなはしたまはじ、ことさら伊勢太神宮、八幡大菩薩、北野天神も、心すなをにいさぎよき人のかうべに宿らせ給ふなるべし、又我身のうき時などは、神社に祈るなどする人のみ侍る也、いとはかなくおぼゆる也、たゞ後生善所と祈るほかは、佛神の願望侍べからず、それぞじるしも侍べけれ、それすら眞實の道には直にいたらずとぞ歎き、
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『翁問答』下卷之末之末以上の聖謨をよく考へて、儒教に専神明を信仰する事を得心すべし、これは外神につかふまつる大法なり、先祖の鬼神を祭は此外なり、日本の神道の礼法に、儒道祭祀の礼にあひかなひたることあり、其上三社の神託の意義儒者の神明につかふまつる心もちに、よくかなひぬれば、本朝は后稷之裔なりといへる、説まこと意義あることなり、さて神明につかふまつるには、その位々のおきて作法あれば、その国の風俗を本とし、天秩の祭祀の礼に考あはせてよく斎戒して信仰すべき事誠に第一なり、しかるに仏者は神明を信仰するを雑行雑修といとひ、仏は六通神は五通などいへるは、勿体なき事なり。
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『肝要工夫録』・先祖の苦労を忘れずさて其先祖の戰場にありて、日夜寢食を安んぜず、君恩を重んじ、一命を輕んじて、精ざる飯に糠味噌汁も足れりと思ひ、忠勤を勵むこと、數多の書に殘りて、その辛苦、いはむ方なし。然るを、其子孫として、其祿を受け繼ぎて、惣領なれば、いつも家督を取ると思ひ、其先祖の佛事法事も、そこ〱に、常に敬することは、いよ〱薄く、豺狼に劣りし行をなしながら、たゞ常に美服を好み、厚味を嗜み、居所の物好に金銀を費し、名利を專らとして、私の爲に淫祀をなして、神佛を祈ること、愚の事なり。たゞ一筋に先祖を尊信し、父母を大切にすることを以て肝要とすべし。
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『直毘霊』大御心を心として古えの大御代には、下が下まで、唯天皇の大御心を心として。天皇の思ほしめす御心のまにまに仕え奉りて、己が私心は露なかりき。ひたぶるに大命を畏み敬い服いて、大御慈しみの御蔭に隠ろいて、おのもおのも祖神を斎き祭りつつ天皇の大御皇祖神の御前を拝み祭り坐すがごとく、臣連八十伴緒、天の下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天の下のために、天つ神国つ神諸をも祭り坐すが如く、下なる人どもも、事に触れては、福を求むと、善き神に請い祈ぎ、禍を逃れんと、悪しき神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢れもあれば、祓い清むるなど、皆人の情にして、必ず有るべきわざなり、然るを心だにまことの道に適いなば、など言うめる筋は、仏の教え儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚く背けり、又異国には、神を祭るにも、唯理を先にして、様々議論あり、淫祀など言いて、戒むることもある、皆さかしらなり、凡て神は、仏などいうなる物の趣とは異にして、善き神のみにはあらず、悪しきも有りて、心も所行も、
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『肝要工夫録』・身分相応の礼義その第一に文武忠孝を勵まし、禮義を正すべき事とある、其禮義は、日本の禮義にて、いかにも上の御示にしたがひ、御旗本は御旗本らしく、御家人は御家人らしく、百姓は百姓らしく、商人は商人らしきがよきなり。然るを、學者なりとて、常に唐人の眞似をし、あまつさへ、親兄抔の葬式も儒葬などにして、臥棺の類に物入をかけ、酒肉を備へ、第一の哀戚の情は脇へ除け置きて、浮屠を散々にそしり抔する者も、まゝあることにて、笑止の事なり。すでに上にて兩山を建て置かれ、御法事その外皆佛法を御取用あることなれば、たとへ、佛法を信ぜざればとても、上の御敎に從ふべき事、第一の禮義なる事を知らず、これみな時所位を知らざる學者の失なり。(儒者などにて、其道を以て事ふる者は、格別の事なり。)又無學のものは、武士が藝者、河原ものゝ眞似をしたり、商人が武士の眞似をしたり、百姓が江戶者の眞似をしたりするは、みな時所位を知らざるの失なり。されば實學に志し、唯だ日用時所位にかなふ處を工夫すべし、是は國を治め、家を齊へ、身を修むるの肝要なるべし。

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