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韓非子 / 難四第三十九

不肖者煬主,不足以害明;今不加知而使賢者煬己,則必危矣。或曰:屈到嗜芰,文王嗜菖蒲葅,非正味也,而二賢尚之,所味不必美。晉靈侯說參無恤,燕噲賢子之,非正士也,而二君尊之,所賢不必賢也。非賢而賢用之,與愛而用之同。賢誠賢而舉之,與用所愛異狀。故楚莊舉孫叔而霸,商辛用費仲而滅,此皆用所賢而事相反也。燕噲雖舉所賢,而同於用所愛,衛奚距然哉?則侏儒之未可見也。君壅而不知其壅也,已見之後而知其壅也,故退壅臣,是加知之也。曰「不加知而使賢者煬己則必危」,而今以加知矣,則雖煬己,必不危矣。

新字:不肖者煬主,不足以害明;今不加知而使賢者煬己,則必危矣。或曰:屈到嗜芰,文王嗜菖蒲葅,非正味也,而二賢尚之,所味不必美。晋霊侯説参無恤,燕噲賢子之,非正士也,而二君尊之,所賢不必賢也。非賢而賢用之,与愛而用之同。賢誠賢而舉之,与用所愛異状。故楚荘舉孫叔而覇,商辛用費仲而滅,此皆用所賢而事相反也。燕噲雖舉所賢,而同於用所愛,衛奚距然哉?則侏儒之未可見也。君壅而不知其壅也,已見之後而知其壅也,故退壅臣,是加知之也。曰「不加知而使賢者煬己則必危」,而今以加知矣,則雖煬己,必不危矣。

書き下し

不肖者の主を煬るは、以て明を害するに足らず。今知を加へずして賢者をして己を煬らしむれば、則ち必ず危ふし。或ひと曰く、屈到は芰を嗜み、文王は菖蒲葅を嗜む、正味に非ざるなり、而して二賢之を尚ぶ、味はふ所必ずしも美ならず。晋の霊侯は参無恤を説び、燕噲は子之を賢とす、正士に非ざるなり、而して二君之を尊ぶ、賢とする所必ずしも賢ならざるなり。賢に非ずして賢として之を用ふるは、愛して之を用ふると同じ。賢誠に賢にして之を挙ぐるは、愛する所を用ふると状を異にす。故に楚荘は孫叔を挙げて覇たり、商辛は費仲を用ひて滅ぶ、此れ皆賢とする所を用ひて事相反するなり。燕噲は賢とする所を挙ぐと雖も、而も愛する所を用ふるに同じ、衛奚ぞ距ぞ然らんや。則ち侏儒の未だ見るべからざるなり。君壅がれて其の壅がるるを知らず、已に之を見ての後に其の壅がるるを知る、故に壅臣を退くるは、是れ知を加ふるなり。「知を加へずして賢者をして己を煬らしむれば則ち必ず危ふし」と曰ふも、而るに今以て知を加ふれば、則ち己を煬らしむと雖も、必ず危ふからず。

現代語訳

(侏儒はさらに言った。)不肖の者が主君の前に立ちはだかっても、主君の明察を損なうほどではありません。今、明察を加えずに、賢いと見なす者に自分の前に立ちはだからせれば、必ず危うくなります。」ある人が言う。楚の屈到はヒシの実を好み、周の文王は菖蒲の漬物を好んだ。どちらもまともな味ではないが、二人の賢者はそれを尊んだ。味わうものが必ずしも美味とは限らない。晋の霊侯は参無恤を喜び、燕王噲は子之を賢者とした。どちらもまともな士ではないが、二人の君主はそれを尊んだ。賢いとしたものが必ずしも賢いとは限らない。賢くない者を賢いとして用いるのは、愛する者を用いるのと同じである。本当に賢い者を挙げるのは、愛する者を用いるのとは様子が違う。だから楚の荘王は孫叔敖を挙げて覇者となり、殷の紂王は費仲を用いて滅んだ。これはどちらも賢いと思う者を用いながら、結果が正反対になったのである。燕王噲は賢いと思う者を挙げたが、実は愛する者を用いたのと同じだった。衛の霊公がどうして必ずそうだといえようか。とすれば、侏儒(の心配)はまだ当たっているとはいえない。君主が塞がれていて塞がれていることを知らず、侏儒に会った後で塞がれていることを知り、それで塞いでいた臣を退けたのなら、それは明察を加えたのである。「明察を加えずに賢者に立ちはだからせれば必ず危うい」と言うが、今すでに明察を加えたのだから、たとえ自分の前に立ちはだからせても、決して危うくない。

解説

前半は侏儒の言葉の結びで、つまらない者が君主の前を塞いでも害は小さいが、賢いと見なされた寵臣が塞げば必ず危ういと霊公を諷しています。後半の「或曰」は、賢いと思う者を用いることの落とし穴を論じます。好物が必ずしも美味でないように、君主が賢いと思う者も必ずしも賢くない。楚の荘王と孫叔敖、紂王と費仲や燕王噲と子之は、どちらも「賢いと思う者を用いた」のに結果は逆でした。ただし、霊公が侏儒の言葉で塞がれていることに気づき、寵臣を退けたのなら、それは明察を加えたことになり危うくないと結びます。気に入った人を賢いと思い込んでいないか、自分の目を疑う大切さを説いています。

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