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韓非子 / 難三第三十八

故曰:昭王之問有失,左右中期之對皆有過也。管子曰:「見其可,說之有證;見其不可,惡之有形。賞罰信於所見,雖所不見,其敢爲之乎?見其可,說之無證;見其不可,惡之無形。賞罰不信於所見,而求所不見之外,不可得也。」或曰:廣廷嚴居,衆人之所肅也;宴室獨處,曾、史之所僈也。觀人之所肅,非行情也。且君上者,臣下之所爲飾也。好惡在所見,臣下之飾姦物以愚其君,必也。明不能燭遠姦,見隱微,而待之以觀飾行,定賞罰,不亦弊乎?管子曰:「言於室,滿於室;言於堂,滿於堂,是謂天下王。」或曰:管仲之所謂言室滿室、言堂滿堂者,非特謂遊戲飲食之言也,必謂大物也。人主之大物,非法則術也。法者,編著之圖籍,設之於官府,而布之於百姓者也。術者,藏之於𦙄中,以偶衆端而潜御羣臣者也。故法莫如顯,而術不欲見。是以明主言法,則境内卑賤莫不聞知也,不獨滿於堂;用術,則親受近習莫之得聞也,不得滿室。而管子猶曰「言於室滿室,言於堂滿堂」,非法術之言也。

新字:故曰:昭王之問有失,左右中期之対皆有過也。管子曰:「見其可,説之有証;見其不可,悪之有形。賞罰信於所見,雖所不見,其敢為之乎?見其可,説之無証;見其不可,悪之無形。賞罰不信於所見,而求所不見之外,不可得也。」或曰:広廷厳居,衆人之所粛也;宴室独処,曽、史之所僈也。観人之所粛,非行情也。且君上者,臣下之所為飾也。好悪在所見,臣下之飾姦物以愚其君,必也。明不能燭遠姦,見隠微,而待之以観飾行,定賞罰,不亦弊乎?管子曰:「言於室,満於室;言於堂,満於堂,是謂天下王。」或曰:管仲之所謂言室満室、言堂満堂者,非特謂遊戯飲食之言也,必謂大物也。人主之大物,非法則術也。法者,編著之図籍,設之於官府,而布之於百姓者也。術者,蔵之於𦙄中,以偶衆端而潜御羣臣者也。故法莫如顕,而術不欲見。是以明主言法,則境内卑賤莫不聞知也,不独満於堂;用術,則親受近習莫之得聞也,不得満室。而管子猶曰「言於室満室,言於堂満堂」,非法術之言也。

書き下し

故に曰く、昭王の問に失有り、左右中期の対皆過有りと。管子曰く、「其の可を見ては、之を説ぶに証有り。其の不可を見ては、之を悪むに形有り。賞罰見る所に信なれば、見ざる所と雖も、其れ敢て之を為さんや。其の可を見て、之を説ぶに証無く、其の不可を見て、之を悪むに形無し。賞罰見る所に信ならずして、見ざる所の外に求むるは、得べからざるなり。」或ひと曰く、広廷厳居は、衆人の粛む所なり。宴室独処は、曾・史も僈る所なり。人の粛む所を観るは、行の情に非ざるなり。且つ君上は、臣下の為に飾る所なり。好悪見る所に在らば、臣下の姦物を飾りて以て其の君を愚にするは、必せり。明遠姦を燭らし隠微を見る能はずして、之を待つに飾行を観るを以てし、賞罰を定むるは、亦弊ならずや。管子曰く、「室に言へば室に満ち、堂に言へば堂に満つ、是を天下の王と謂ふ。」或ひと曰く、管仲の所謂室に言へば室に満ち、堂に言へば堂に満つとは、特だ遊戯飲食の言を謂ふのみに非ず、必ず大物を謂ふなり。人主の大物は、法に非ずんば則ち術なり。法とは、之を図籍に編著し、之を官府に設け、而して之を百姓に布く者なり。術とは、之を胸中に蔵し、以て衆端に偶して潜かに群臣を御する者なり。故に法は顕なるに如くは莫く、而して術は見るるを欲せず。是を以て明主法を言へば、則ち境内の卑賤も聞知せざる莫きなり、独り堂に満つるのみならず。術を用ふれば、則ち親受近習も之を聞くを得る莫きなり、室に満つるを得ず。而るに管子猶ほ曰く「室に言へば室に満ち、堂に言へば堂に満つ」と、法術の言に非ざるなり。

現代語訳

だから、昭王の問いには誤りがあり、側近と中期の答えにもみな過ちがあるというのである。管子(管仲)は言った。「よいことを見れば、喜ぶことに証拠があり、よくないことを見れば、憎むことに形がある。見える所で賞罰が確かに行われれば、見えない所でも、あえて悪事をしようか。よいことを見ても喜ぶ証拠がなく、よくないことを見ても憎む形がない。見える所で賞罰が確かでないのに、見えない所で(正しい行いを)求めても、得られるはずがない。」ある人が言う。広い朝廷で厳かにしている時は、誰もが身を慎む。宴の部屋に一人でいる時は、曾参や史鰌(ともに行いの正しさで知られた人)でさえ気を緩める。人が身を慎んでいる所を観ても、それは行いの実情ではない。しかも君主は、臣下が取り繕って見せる相手である。好き嫌いが見える所だけで決まるなら、臣下が姦を飾り立てて君主を愚かにするのは必然だ。遠くの姦を照らし隠れた兆しを見抜く明察がないまま、取り繕った行いを観て賞罰を定めるのは、弊害ではないか。管子は言った。「部屋で言えば部屋じゅうに満ち、堂で言えば堂じゅうに満ちる、これを天下の王という。」ある人が言う。管仲の言う「部屋で言えば部屋に満ち、堂で言えば堂に満つ」とは、遊びや飲食の話をいうだけではなく、必ず大事をいうのである。君主の大事とは、法でなければ術である。法とは、文書に書き記して官府に置き、民に広く布告するものだ。術とは、胸の内に秘め、さまざまな事柄に照らし合わせて、ひそかに群臣を操るものだ。だから法は明らかであるに越したことはなく、術は人に見られてはならない。こうして明主が法を語れば、国内の身分の低い者まで聞き知らない者はなく、堂に満ちるどころではない。術を用いれば、親しく寵愛される側近でさえそれを聞くことはできず、部屋に満ちることもない。それなのに管子がなお「部屋で言えば部屋に満ち、堂で言えば堂に満つ」と言うのは、法と術をわきまえた言葉ではない。

解説

前半は昭王の話を結んだ後、『管子』の「見る所に賞罰が信なら、見ない所でも悪は為されない」という言葉を批判します。韓非は、人は人前では慎み一人になると緩むものであり、臣下は君主の前で取り繕うので、見える所だけで賞罰を決めれば欺かれると言います。後半は『管子』の「室に言へば室に満つ」を取り上げ、法と術の違いを示す有名な一節です。法は文書にして官府に置き民に広く知らせるもの、術は君主が胸に秘めて群臣を操るもので、「法は顕なるに如くは莫く、術は見るるを欲せず」とまとめます。ルールは全員に公開し、人を見極める目は手の内を明かさないという使い分けは、今の組織運営でも考えさせられます。

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