韓非子 / 難三第三十八
鄭子産晨出,過東匠之閭,聞婦人之哭,撫其御之手而聽之。有間,遣吏執而問之,則手絞其夫者也。異日,其御問曰:「夫子何以知之?」子産曰:「其聲懼。凡人於其親愛也,始病而憂,臨死而懼,已死而哀。今哭已死,不哀而懼,是以知其有姦也。」或曰:子産之治,不亦多士乎?
新字:鄭子産晨出,過東匠之閭,聞婦人之哭,撫其御之手而聴之。有間,遣吏執而問之,則手絞其夫者也。異日,其御問曰:「夫子何以知之?」子産曰:「其声懼。凡人於其親愛也,始病而憂,臨死而懼,已死而哀。今哭已死,不哀而懼,是以知其有姦也。」或曰:子産之治,不亦多士乎?
書き下し
鄭の子産、晨に出で、東匠の閭を過ぎ、婦人の哭するを聞き、其の御の手を撫して之を聴く。間有りて、吏を遣はして執へて之を問はしむれば、則ち手づから其の夫を絞る者なり。異日、其の御問ひて曰く、「夫子何を以て之を知る。」子産曰く、「其の声懼る。凡そ人の其の親愛に於けるや、始め病めば憂へ、死に臨めば懼れ、已に死すれば哀しむ。今已に死せるを哭して、哀しまずして懼る、是を以て其の姦有るを知るなり。」或ひと曰く、子産の治、亦多士ならずや。
現代語訳
鄭の子産(鄭の名宰相)が早朝に外出し、東匠の村の門を通りかかったとき、婦人の泣き声を聞いた。子産は御者の手を押さえて車を止め、それに耳を傾けた。しばらくして役人を遣わして婦人を捕らえ問いただすと、自分の手で夫を絞め殺した者だった。後日、御者が尋ねた。「先生はどうしてそれが分かったのですか。」子産は言った。「その声が恐れていた。およそ人は親しく愛する者に対して、病み始めれば憂え、死に臨めば恐れ、死んでしまえば悲しむものだ。今、すでに死んだ者を泣いているのに、悲しまずに恐れている。だから何かやましいことがあると分かったのだ。」ある人が言う。子産の治め方は、手間が多すぎるのではないか。
解説
難三篇の第五話で、鄭の名宰相子産が婦人の泣き声から夫殺しを見抜いた話です。子産は、人は身内が死に臨めば恐れ、死ねば悲しむものなのに、死後も恐れの声で泣くのはおかしいと察しました。人の心の動きを読む鋭い観察として、名裁きの逸話に数えられます。しかし韓非は「或曰」で、そうした治め方は手間がかかりすぎると疑問を投げかけます。続く句で、為政者一人の洞察に頼る統治の危うさが論じられます。個人の勘の鋭さは確かに武器になりますが、それが組織の唯一の頼りになると、その人がいなくなったとたんに崩れます。名人芸と仕組みの違いを考える入口になる話です。
関連する章句
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呂氏春秋・離謂④子產、鄭を治め、鄧析務めて之を難じ、民の獄有る者と約す。大獄は一衣、小獄は襦袴なり。民の衣襦袴を獻じて訟を學ぶ者、勝げて數う可からず。非を以て是と爲し、是を以て非と爲す。是非に度無くして、可と不可と日に變ず。勝たしめんと欲する所は因りて勝ち、罪せんと欲する所は因りて罪す。鄭國大いに亂れ、民口讙譁す。子產之を患う。是に於て鄧析を殺して之を戮す。民心乃ち服し、是非乃ち定まり、法律乃ち行わる。今世の人、多く其の國を治めんと欲して、而も鄧析の類を誅すること莫し。此れ治を欲して愈々亂るる所以なり。
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史記 鄭世家子産韓宣子に謂ひて曰く、「政を為すには必ず徳を以てす、立つ所以を忘るる毋かれ」と。鄭火あり、公之を禳せんと欲す。子産曰く、「徳を修むるに如かず」と。子産卒するや、鄭人皆哭泣し、之を悲しむこと親戚を亡へるがごとし。孔子子産の死を聞き、為に泣きて曰く、「古の遺愛なり」と。
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孔子家語・正論解鄭の子産、疾有り。子太叔に謂いて曰く、「我死せば、子必ず政を為さん。唯だ徳有る者のみ能く寛を以て民を服せしむ。其の次は猛に如くは莫し。夫れ火烈しければ民望みて之を畏る、故に死する者鮮し。水は濡弱にして、民狎れて之を翫ぶ、則ち死する者多し。故に寛は難し。」子産卒す。子太叔政を為す。猛にするに忍びずして寛にす、鄭国掠盗多し。太叔之を悔いて曰く、「吾早く夫子に従わば、必ず此に及ばざりしならん。」孔子之を聞きて曰く、「善いかな。政寛なれば則ち民慢る、慢れば則ち猛を以て之を糾す。猛なれば則ち民残なわる、民残なわれば則ち之を施すに寛を以てす。寛以て猛を済い、猛以て寛を済う、寛猛相済いて、政是を以て和す。詩に曰く、『民亦た労れたり、汔んど小康なるべし。此の中国を恵み、以て四方を綏んぜよ。』寛を以て之を施し、詭随を縦にする毋かれ。以て無良を謹み、寇虐を式め遏め、慘として明を畏れざるを、之を糾すに猛を以てするなり。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定む、之を平らかにするに和を以てするなり。」又曰く、「競わず絿がず、剛ならず柔ならず。政を布くこと優優たり、百禄是れ遒まる。和の至りなり。」子産の卒するや、孔子之を聞き、涕を出して曰く、「古の遺愛なり。」
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史記 循吏列伝孫叔敖三たび相を得るも喜ばず、其の材の自ら之を得たるを知ればなり。三たび相を去るも悔いず、己の罪に非ざるを知ればなり。子産は、鄭の列大夫なり。相と為りて一年、豎子戯狎せず、斑白提挈せず、僮子畔を犁かず。二年、市豫賈せず。三年、門夜に関さず、道遺を拾はず。四年、田器帰さず。五年、士に尺籍無く、喪期令せずして治まる。鄭を治むること二十六年にして死す、丁壮号哭し、老人児のごとく啼きて曰く、「子産我を去りて死せるか、民将た安くにか帰せん」と。
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『韓非子』外儲說左上第三十二之を伐つこと亦可ならずや。」主父曰く、「善し。」兵を挙げて中山を伐ち、遂に滅ぼすなり。五。斉の桓公紫を服することを好み、一国尽く紫を服す。是の時に当りてや、五素も一紫を得ず。桓公之を患ひ、管仲に謂ひて曰く、「寡人紫を服することを好み、紫の貴きこと甚し、一国の百姓紫を服することを好みて已まず、寡人奈何せん。」管仲曰く、「君之を止めんと欲せば、何ぞ試みに紫を衣ること勿からざる。左右に謂ひて曰へ、吾甚だ紫の臭を悪む、と。是に於て左右適ま紫を衣て進む者有らば、公必ず曰へ、少しく却け、吾紫の臭を悪む、と。」公曰く、「諾。」是に於て日、郎中紫を衣るもの莫し。其の明日、国中紫を衣るもの莫し。三日にして、境内紫を衣るもの莫きなり。一に曰く、斉王紫を衣ることを好み、斉人皆好むなり。斉国五素も一紫を得ず、斉王紫の貴きを患ふ。傅王に説きて曰く、「詩に云ふ、躬らせず親らせざれば、庶民信ぜず、と。今王民の紫を衣る者無からしめんと欲せば、王請ふ自ら紫衣を解きて朝せよ。群臣に紫衣して進む者有らば、曰へ、益ます遠ざかれ、寡人臭を悪む、と。」是の日や、郎中紫を衣るもの莫し。是の月や、国中紫を衣るもの莫し。是の歳や、境内紫を衣るもの莫し。鄭の簡公子産に謂ひて曰く、「国小にして、荊・晋の間に迫る。今城郭完からず、兵甲備はらず、以て不虞を待つべからず。」子産曰く、「臣其の外を閉づること已に遠し、而して其の内を守ること已に固し、国小なりと雖も、猶ほ之を危しとせざるなり。君其れ憂ふること勿かれ。」是を以て簡公の身を没するまで患ひ無し。一に曰く、子産鄭に相たり、簡公子産に謂ひて曰く、「酒を飲むも楽しまざるなり。俎豆大ならず、鐘鼓竽瑟鳴らず、寡人の事一ならず、国家定まらず、百姓治まらず、耕戦輯睦せざるは、亦子の罪なり。子に職有り、寡人も亦職有り、各其の職を守らん。」子産退きて政を為すこと五年、国に盗賊無く、道に遺ちたるを拾はず、桃棗の街に蔭する者援くもの有る莫く、錐刀道に遺つるも三日にして反るべし。
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呂氏春秋・下賢⑤子産、鄭に相たるや、往きて壺丘子林を見る。其の弟子と坐するに必ず年を以てす。是れ其の相を門に倚くなり。夫れ萬乘の國に相として能く之を遺き、志を謀り行いを論じ、而して心を以て人と相索むるは、其れ唯だ子産のみか。故に鄭に相たること十八年、三人を刑し、二人を殺すのみ。桃李の行に垂るる者も、之を援くもの莫く、錐刀の道に遺ちたる者も、之を舉ぐるもの莫きなり。