韓非子 / 難二第三十七
敗軍之誅以千百數,猶北不止;即治亂之刑如恐不勝,而姦尚不盡。今晏子不察其當否,而以太多爲說,不亦妄乎?
新字:敗軍之誅以千百数,猶北不止;即治乱之刑如恐不勝,而姦尚不尽。今晏子不察其当否,而以太多為説,不亦妄乎?
書き下し
敗軍の誅は千百を以て数ふるも、猶ほ北げて止まず。即ち治乱の刑は勝へざるを恐るるが如くするも、姦尚ほ尽きず。今晏子其の当否を察せずして、太だ多きを以て説と為す、亦妄ならずや。
現代語訳
敗れた軍の兵を千人百人単位で誅しても、なお逃げる者は後を絶たない。乱れを治める刑罰は、まるで追いつかないのを恐れるように行っても、悪事はなお尽きない。いま晏子は刑罰が当を得ているかどうかを見極めずに、多すぎることを理由に説いた。でたらめではないか。
解説
晏子の「踴貴くして屨賤し」を批判する韓非の議論の核心です。敗走する軍の兵を大量に誅しても逃亡は止まらず、乱れを治める刑罰は追いつかないのを恐れるほど行っても悪事は尽きない、と述べます。だから刑罰について問うべきは多いか少ないかではなく、罪に当たっているかどうかであり、それを見ずに多すぎると言うのは妄言だというのです。この話の直前の部分では、刑が当たっていれば多くても多すぎることはなく、当たっていなければ少なくても少なすぎないという趣旨の議論がなされています。厳罰主義の主張として読むと抵抗がありますが、処分や規則の議論が「厳しすぎる」「甘すぎる」という量の話に終始し、個々の妥当性の検討が抜け落ちることへの警告としては、今も通用する視点です。
関連する章句
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『韓非子』難二第三十七夫れ刑は当たれば多きこと無く、当たらざれば少なきこと無し。当たらざるを以て聞かずして、太だ多きを以て説くは、術無きの患いなり。
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『韓非子』難二第三十七景公晏子に過りて、曰く、「子の宮小にして、市に近し、請ふ子の家を豫章の圃に徙さん」と。晏子再拝して辞して曰く、「且つ嬰の家は貧しく、市を待ちて食し、朝暮に之に趨く、以て遠くす可からず」と。景公笑ひて曰く、「子の家は市に習ふ、貴賤を識るか」と。是の時景公刑を繁くす。晏子対へて曰く、「踴貴くして屨賤し」と。景公曰く、「何の故ぞ」と。対へて曰く、「刑多ければなり」と。景公造然として色を変じて曰く、「寡人其れ暴なるか」と。是に於て刑五を損ず。或ひと曰く、晏子の踴を貴しとするは、其の誠に非ざるなり、辞を便にして以て多刑を止めんと欲するなり。此れ治の患を察せざるなり。
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『韓非子』六反第四十六学者の言は皆「刑を軽くす」と曰ふ、此れ乱亡の術なり。凡そ賞罰の必なる者は、勧禁なり。賞厚ければ、則ち欲する所の得らるること疾し。罰重ければ、則ち悪む所の禁ぜらるること急なり。夫れ利を欲する者は必ず害を悪む、害なる者は、利の反なり。欲する所に反す、焉んぞ悪む無きを得ん。治を欲する者は必ず乱を悪む、乱なる者は、治の反なり。是の故に治を欲すること甚しき者は、其の賞必ず厚し。其の乱を悪むこと甚しき者は、其の罰必ず重し。今軽刑を取る者は、其の乱を悪むこと甚しからざるなり、其の治を欲すること又甚しからざるなり。此れ特に術無きのみに非ず、又乃ち行無きなり。是の故に賢・不肖・愚・知を決するの筴は、賞罰の軽重に在り。且つ夫れ重刑なる者は、罪人の為に非ざるなり。明主の法は、揆なり。賊を治むるは、治むる所を治むるに非ざるなり。治むる所を治むる者は、是れ死人を治むるなり。盗を刑するは、刑する所を治むるに非ざるなり。刑する所を治むる者は、是れ胥靡を治むるなり。
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『韓非子』難二第三十七賞厚くして信なれば、夫人は敵を軽んず。刑重くして必なれば、夫人は北げず。... 衆を將る者然らざるの數に出でずして、而も百に一人無きの行いに道る。
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『韓非子』難二第三十七夫れ草茅を惜しむ者は禾穂を耗らし、盗賊に恵む者は良民を傷る。今刑罰を緩くし、寛恵を行うは、是れ姦邪を利して善人を害するなり。此れ治を為す所以に非ざるなり。
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『韓非子』難四第三十九未だ齊の巧臣を知らずして、明亂の罰を廢し、未然に責めて、昭昭の罪を誅せざるは、此れ則ち妄なり。