韓非子 / 內儲說上七術第三十
今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。」龐恭從邯鄲反,竟不得見。二。董閼于爲趙上地守。行石邑山中,澗深,峭如墻,深百仞,因問其旁鄉左右曰:「人嘗有入此者乎?」對曰:「無有。」曰:「嬰兒、癡聾、狂悖之人嘗有入此者乎?」對曰:「無有。」「牛馬犬彘嘗有入此者乎?」對曰:「無有。」董閼于喟然太息曰:「吾能治矣。使吾治之無赦,猶入澗之必死也,則人莫之敢犯也,何爲不治?」子産相鄭,病將死,謂游吉曰:「我死後,子必用鄭,必以嚴莅人。夫火形嚴,故人鮮灼;水形懦,人多溺。子必嚴子之形,無令溺子之懦。」子産死。游吉不肯嚴形,鄭少年相率爲盜,處於雚澤,將遂以爲鄭禍。游吉率車騎與戰,一日一夜,僅能尅之。游吉喟然歎曰:「吾蚤行夫子之教,必不悔至於此矣。」魯哀公問於仲尼曰:「《春秋》之記曰:『冬十二月霣霜不殺菽。』何爲記此?」仲尼對曰:「此言可以殺而不殺也。夫宜殺而不殺,桃李冬實。天失道,草木猶犯干之,而況於人君乎!」
新字:今邯鄲之去魏也遠於市,議臣者過於三人,願王察之。」龐恭従邯鄲反,竟不得見。二。董閼于為趙上地守。行石邑山中,澗深,峭如墻,深百仞,因問其旁郷左右曰:「人嘗有入此者乎?」対曰:「無有。」曰:「嬰児、痴聾、狂悖之人嘗有入此者乎?」対曰:「無有。」「牛馬犬彘嘗有入此者乎?」対曰:「無有。」董閼于喟然太息曰:「吾能治矣。使吾治之無赦,猶入澗之必死也,則人莫之敢犯也,何為不治?」子産相鄭,病将死,謂游吉曰:「我死後,子必用鄭,必以厳莅人。夫火形厳,故人鮮灼;水形懦,人多溺。子必厳子之形,無令溺子之懦。」子産死。游吉不肯厳形,鄭少年相率為盗,処於雚沢,将遂以為鄭禍。游吉率車騎与戦,一日一夜,僅能尅之。游吉喟然嘆曰:「吾蚤行夫子之教,必不悔至於此矣。」魯哀公問於仲尼曰:「《春秋》之記曰:『冬十二月霣霜不殺菽。』何為記此?」仲尼対曰:「此言可以殺而不殺也。夫宜殺而不殺,桃李冬実。天失道,草木猶犯干之,而況於人君乎!」
書き下し
「今邯鄲の魏を去るや市より遠く、臣を議する者は三人に過ぐ、願はくは王之を察せよ」と。龐恭、邯鄲より反るも、竟に見ゆることを得ず。二。董閼于、趙の上地の守と為る。石邑の山中を行くに、澗深く、峭しきこと墻の如く、深さ百仞なり。因りて其の旁郷の左右に問ひて曰く、「人嘗て此に入る者有るか」と。対へて曰く、「有る無し」と。曰く、「嬰児・癡聾・狂悖の人も嘗て此に入る者有るか」と。対へて曰く、「有る無し」と。「牛馬犬彘も嘗て此に入る者有るか」と。対へて曰く、「有る無し」と。董閼于喟然として太息して曰く、「吾能く治めん。吾をして之を治むること赦す無からしめ、猶ほ澗に入れば必ず死するがごとくならしめば、則ち人敢へて之を犯す莫からん、何為れぞ治まらざらん」と。子産、鄭に相たり。病みて将に死せんとし、游吉に謂ひて曰く、「我死するの後、子必ず鄭に用ひられん。必ず厳を以て人に莅め。夫れ火は形厳なり、故に人灼かるること鮮なし。水は形懦なり、人多く溺る。子必ず子の形を厳にせよ、子の懦に溺れしむること無かれ」と。子産死す。游吉、形を厳にするを肯んぜず。鄭の少年相率ゐて盗を為し、雚沢に処り、将に遂に以て鄭の禍ひと為らんとす。游吉、車騎を率ゐて与に戦ひ、一日一夜にして、僅かに能く之に克つ。游吉喟然として歎じて曰く、「吾蚤く夫子の教へを行はば、必ず悔いて此に至らざりしならん」と。魯の哀公、仲尼に問ひて曰く、「春秋の記に曰く、『冬十二月、霣霜菽を殺さず』と。何為れぞ此を記すや」と。仲尼対へて曰く、「此れ以て殺すべくして殺さざるを言ふなり。夫れ宜しく殺すべくして殺さざれば、桃李冬に実る。天道を失へば、草木すら猶ほ之を犯干す、而るを況んや人君に於てをや」と。
現代語訳
(龐恭は言った。)「いま邯鄲は魏から市場よりもはるかに遠く、わたしのことをとやかく言う者は三人を超えるでしょう。どうか王はよくお見極めください」。龐恭が邯鄲から帰ってきたとき、結局王に目通りすることはできなかった。(以下は説の)二である。董閼于が趙の上地の長官となった。石邑の山中を行くと、谷川が深く、壁のように切り立ち、深さは百仞もあった。そこで近くの村の者たちに尋ねた。「これまでここに落ちた者はいるか」。「おりません」と答えた。「幼子や愚か者、耳の聞こえない者、気のふれた者でも、ここに落ちた者はいるか」。「おりません」と答えた。「牛や馬、犬や豚でも、ここに落ちたものはいるか」。「おりません」と答えた。董閼于はため息をついて言った。「わたしは治めることができる。わたしの治め方に容赦がなく、この谷川に落ちれば必ず死ぬのと同じようにすれば、誰もあえて法を犯すまい。どうして治まらないことがあろう」。子産は鄭の宰相であった。病で死にかけたとき、游吉に言った。「わたしが死んだ後、あなたは必ず鄭で用いられる。必ず厳しさをもって人に臨みなさい。火は見た目が厳しいから、やけどをする人は少ない。水は見た目が弱々しいから、多くの人が溺れる。あなたは必ずその姿を厳しくし、あなたの弱々しさに人を溺れさせてはならない」。子産が死んだ。游吉は厳しい姿をとろうとしなかった。すると鄭の若者たちが徒党を組んで盗賊となり、雚沢に立てこもって、やがて鄭の禍いとなろうとした。游吉は戦車と騎兵を率いて戦い、一日一夜かかってやっと打ち破った。游吉はため息をついて言った。「わたしが早くから先生の教えを行っていれば、きっとこんなことになって悔やむことはなかっただろう」。魯の哀公が孔子に尋ねた。「『春秋』の記録に『冬十二月、霜が降りたが豆を枯らさなかった』とある。なぜこんなことを記したのか」。孔子は答えた。「これは、枯らすべきなのに枯らさなかったことを言っているのです。そもそも枯らすべきときに枯らさなければ、桃や李が冬に実をつけます。天でさえ道を失えば草木がそれを乱すのですから、まして君主においてはなおさらです」。
解説
関連する章句
-
『韓非子』內儲說上七術第三十哀公曰く、「善し」と。仲尼曰く、「事急にして、賞するに及ばず。火を救ふ者尽く之を賞せば、則ち国以て人に賞するに足らず。請ふ徒だ罰を行はん」と。哀公曰く、「善し」と。是に於て仲尼乃ち令を下して曰く、「火を救はざる者は、降北の罪に比し、獣を逐ふ者は、入禁の罪に比す」と。令下りて未だ遍からずして火已に救はる。成驩、斉王に謂ひて曰く、「王は太だ仁にして、太だ人に忍びず」と。王曰く、「太だ仁にして、太だ人に忍びざるは、善名に非ずや」と。対へて曰く、「此れ人臣の善なり、人主の行ふ所に非ざるなり。夫れ人臣は必ず仁にして而る後に与に謀るべく、人に忍びずして而る後に近づくべきなり。仁ならざれば則ち与に謀るべからず、人に忍べば則ち近づくべからざるなり」と。王曰く、「然らば則ち寡人安くにか太だ仁なる、安くにか人に忍びざる」と。対へて曰く、「王は薛公に太だ仁にして、諸田に太だ忍びず。薛公に太だ仁なれば、則ち大臣重き無く、諸田に太だ忍びざれば、則ち父兄法を犯す。大臣重き無ければ、則ち兵外に弱く、父兄法を犯せば、則ち政内に乱る。兵外に弱く、政内に乱るる、此れ亡国の本なり」と。
-
『韓非子』內儲說上七術第三十過ち有るも罪せず、功無くして賞を受くれば、亡ぶと雖も、亦可ならずや」と。斉国厚葬を好み、布帛は衣衾に尽き、材木は棺椁に尽く。桓公之を患ひ、以て管仲に告げて曰く、「布帛尽くれば則ち以て蔽ひと為す無く、材木尽くれば則ち以て守備と為す無し。而るに人の厚葬すること休まず、之を禁ずること奈何」と。管仲対へて曰く、「凡そ人の為す有るや、之を名とするに非ざれば、則ち之を利とするなり」と。是に於て乃ち令を下して曰く、「棺椁度に過ぐる者は其の尸を戮し、夫の喪に当たる者を罪す」と。夫れ死を戮すれば名無く、喪に当たる者を罪すれば利無し。人何の故にか之を為さんや。衛の嗣君の時、胥靡有りて魏に逃れ、因りて襄王の后の為に病を治す。衛の嗣君之を聞き、人をして五十金を以て之を買はんことを請はしむ。五たび反るも魏王予へず、乃ち左氏を以て之に易へんとす。群臣左右諫めて曰く、「夫れ一都を以て胥靡を買ふは、可ならんや」と。王曰く、「子の知る所に非ざるなり。夫れ治に小無く、乱に大無し。法立たずして誅必ならずんば、十の左氏有りと雖も益無きなり。法立ちて誅必ならば、十の左氏を失ふと雖も害無きなり」と。魏王之を聞きて曰く、「主治めんと欲して之に聴かざるは、不祥なり」と。因りて載せて往き、徒だ之を献ず。三。斉王、文子に問ひて曰く、「国を治むること何如」と。対へて曰く、「夫れ賞罰の道為る、利器なり。君固く之を握り、以て人に示すべからず。臣の如き者の若きは、猶ほ獣鹿のごときなり、唯だ薦草にのみ就く」と。越王、大夫文種に問ひて曰く、「吾呉を伐たんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「可なり。吾が賞は厚くして信、罰は厳にして必なり。君之を知らんと欲せば、何ぞ試みに宮室を焚かざる」と。是に於て遂に宮室を焚く。人之を救ふ莫し。乃ち令を下して曰く、「人の火を救ひて死する者は、死敵の賞に比し、火を救ひて死せざる者は、勝敵の賞に比し、火を救はざる者は、降北の罪に比す」と。人の其の体に塗り濡衣を被て火に走る者、左に三千人、右に三千人。此れ必勝の勢ひを知るなり。呉起、魏の武侯の為に西河の守と為る。秦に小亭有りて境に臨む。呉起之を攻めんと欲す。去らずんば、則ち甚だ田者を害す。之を去らんとすれば、則ち以て甲兵を徴するに足らず。
-
『韓非子』內儲說上七術第三十一に曰く、殷の法、灰を公道に棄つる者は其の手を断つ。子貢曰く、「灰を棄つるの罪は軽く、手を断つの罰は重し。古人何ぞ太だ毅なるや」と。曰く、「灰を棄つる無きは易き所なり。手を断つは悪む所なり。易き所を行ひて、悪む所に関はらざる、古人以て易しと為す、故に之を行ふ」と。中山の相楽池、車百乗を以て趙に使ひし、其の客の智能有る者を選びて以て将行と為すも、中道にして乱る。楽池曰く、「吾公を以て智有りと為して、公をして将行為らしむ。今中道にして乱るるは何ぞや」と。客因りて辞して去りて曰く、「公は治を知らず。威は以て人を服するに足り、利は以て之を勧むるに足る有り、故に能く之を治む。今臣は君の少客なり。夫れ少を以て長を正し、賤を以て貴を治めて、其の利害の柄を操りて以て之を制することを得ず、此れ乱るる所以なり。嘗試みに臣をして、彼の善き者は我能く以て卿相と為し、彼の善からざる者は我其の首を斬ることを得しめば、何の故にか治まらざらん」と。公孫鞅の法や軽罪を重くす。重罪は人の犯し難き所なり。而して小過は人の去り易き所なり。人をして其の易き所を去らしめて、其の難き所に離る無からしむる、此れ治の道なり。夫れ小過生ぜず、大罪至らず、是れ人罪無くして乱生ぜざるなり。一に曰く、公孫鞅曰く、「刑を行ふに其の軽き者を重くすれば、軽き者至らず、重き者来らず、是を刑を以て刑を去ると謂ふ」と。荊南の地、麗水の中に金を生じ、人多く窃かに金を采る。采金の禁、得れば輒ち市に辜磔す。甚だ衆く、其の水を壅離するも、人の金を窃むこと止まず。大罪は市に辜磔するより重きは莫きも、猶ほ止まざるは、必ずしも得られざればなり。故に今此に「汝に天下を予へて汝の身を殺さん」と曰ふもの有らば、庸人も為さざるなり。夫れ天下を有つは大利なり、猶ほ為さざるは、必ず死するを知ればなり。故に必ずしも得られざれば、則ち辜磔すと雖も、金を窃むこと止まず。必ず死するを知れば、則ち天下を有つとも為さざるなり。
-
『韓非子』外儲説右下第三十五故に火を失するの嗇夫は、論ぜざる可からざるなり。火を救ふ者は、吏壺を操りて火に走れば、則ち一人の用なり。鞭を操りて人を使へば、則ち万夫を役す。故に術に遇ふ所の者は、造父の驚馬に遇ふが如し、馬を牽き車を推せば則ち進む能はず、代はりて御して轡を執り筴を持てば則ち馬咸な騖す。是を以て説は椎鍛の平夷、榜檠の矯直に在り。然らざれば、敗は淖歯の斉を用ひて閔王を戮し、李兌の趙を用ひて主父を餓ゑしむるに在るなり。五。事の理に因れば、則ち労せずして成る。故に茲鄭の轅に踞りて歌ひて以て高梁に上るなり。其の患は趙簡主の税吏軽重を請ふに在り。薄疑の「国中飽く」と言ふ、簡主喜びて府庫虚しく、百姓餓ゑて姦吏富むなり。故に桓公民を巡りて管仲腐財怨女を省く。然らざれば、則ち延陵の馬に乗りて進むを得ず、造父之を過ぎりて之が為に泣くに在るなり。一。造父四馬を御し、馳驟周旋して馬に恣欲す。馬に恣欲する者は、轡筴の制を擅にするなり。然れども馬出彘に驚きて造父禁制する能はざる者は、轡筴の厳足らざるに非ず、威出彘に分かるればなり。王子於期駙駕を為し、轡筴用ひずして馬に択欲す、芻水の利を擅にするなり。然れども馬圃池を過ぎて駙駕敗るる者は、芻水の利足らざるに非ず、徳圃池に分かるればなり。
-
『韓非子』外儲說左上第三十二孔子曰く、「人君為る者は猶ほ盂のごときなり、民は猶ほ水のごときなり。盂方なれば水方に、盂圜なれば水圜なり。」鄒君長纓を服することを好み、左右皆長纓を服す、纓甚だ貴し。鄒君之を患ひ、左右に問ふ、左右曰く、「君服することを好めば、百姓亦多く服す、是を以て貴し。」君因りて先づ自ら其の纓を断ちて出づ、国中皆長纓を服せず。君下令して百姓の為に服度を為して以て之を禁ずること能はず、纓を断ちて出でて以て民に先んじて示す、是れ先づ戮して以て民に蒞むなり。叔向猟を賦す、功多き者は多きを受け、功少き者は少きを受く。韓の昭侯申子に謂ひて曰く、「法度甚だ行ひ易からざるなり。」申子曰く、「法は、功を見て賞を与へ、能に因りて官を受く。今君法度を設けて左右の請を聴く、此れ行ひ難き所以なり。」昭侯曰く、「吾今より以来法を行ふを知れり、寡人奚ぞ聴かん。」一日、申子其の従兄を官に仕へしめんことを請ふ。昭侯曰く、「子に学ぶ所に非ざるなり。子の謁を聴きて、子の道を敗らんか、亡た子の謁を用ひんか。」申子舎を辟けて罪を請ふ。六。晋の文公原を攻む、十日の糧を裹み、遂に大夫と十日を期す。原に至りて十日にして原下らず、金を撃ちて退き、兵を罷めて去る。士に原中より出づる者有り、曰く、「原三日にして即ち下らん。」群臣左右諫めて曰く、「夫れ原の食竭き力尽く、君姑く之を待て。」公曰く、「吾士と十日を期す、去らずんば、是れ吾が信を亡ふなり。原を得て信を失ふは、吾為さざるなり。」遂に兵を罷めて去る。原人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、帰する無かるべけんや。」乃ち公に降る。衛人聞きて曰く、「君の彼の如く其れ信なる有り、従ふ無かるべけんや。」乃ち公に降る。孔子聞きて之を記して曰く、「原を攻めて衛を得たる者は、信なり。」文公箕鄭に問ひて曰く、「餓を救ふこと奈何。」対へて曰く、「信なり。」公曰く、「安んぞ信ならん。」曰く、「名に信に、事に信に、義に信なり。
-
孔子家語・正論解鄭の子産、疾有り。子太叔に謂いて曰く、「我死せば、子必ず政を為さん。唯だ徳有る者のみ能く寛を以て民を服せしむ。其の次は猛に如くは莫し。夫れ火烈しければ民望みて之を畏る、故に死する者鮮し。水は濡弱にして、民狎れて之を翫ぶ、則ち死する者多し。故に寛は難し。」子産卒す。子太叔政を為す。猛にするに忍びずして寛にす、鄭国掠盗多し。太叔之を悔いて曰く、「吾早く夫子に従わば、必ず此に及ばざりしならん。」孔子之を聞きて曰く、「善いかな。政寛なれば則ち民慢る、慢れば則ち猛を以て之を糾す。猛なれば則ち民残なわる、民残なわれば則ち之を施すに寛を以てす。寛以て猛を済い、猛以て寛を済う、寛猛相済いて、政是を以て和す。詩に曰く、『民亦た労れたり、汔んど小康なるべし。此の中国を恵み、以て四方を綏んぜよ。』寛を以て之を施し、詭随を縦にする毋かれ。以て無良を謹み、寇虐を式め遏め、慘として明を畏れざるを、之を糾すに猛を以てするなり。遠きを柔らげ邇きを能くし、以て我が王を定む、之を平らかにするに和を以てするなり。」又曰く、「競わず絿がず、剛ならず柔ならず。政を布くこと優優たり、百禄是れ遒まる。和の至りなり。」子産の卒するや、孔子之を聞き、涕を出して曰く、「古の遺愛なり。」