師導古典を学びたいすべての人に

韓非子 / 解老第二十

竽也者,五聲之長者也,故竽先則鍾瑟皆隨,竽唱則諸樂皆和。今大姦作則俗之民唱,俗之民唱則小盜必和。故「服文采,帶利劒,厭飲食,而貨資有餘者,是之謂盜竽矣」。人無愚智,莫不有趨舍。恬淡平安,莫不知禍福之所由來。得於好惡,怵於淫物,而後變乱。所以然者,引於外物,亂於玩好也。恬淡有趨舍之義,平安知禍福之計。而今也玩好變之,外物引之;引之而往,故曰「拔」。至聖人不然:一建其趨舍,雖見所好之物不能引,不能引之謂「不拔」;一於其情,雖有可欲之類神不爲動,神不爲動之謂「不脫」。爲人子孫者,體此道以守宗廟,宗廟不滅之謂「祭祀不絶」。身以積精爲德,家以資財爲德,鄉國天下皆以民爲德。今治身而外物不能亂其精神,故曰:「脩之身,其德乃真。」真者,慎之固也。治家,無用之物不能動其計,則資有餘,故曰:「脩之家,其德有餘。」治鄉者行此節,則家之有餘者益衆,故曰:「脩之鄉,其德乃長。」治邦者行此節,則鄉之有德者益衆,故曰:「脩之邦,其德乃豐。」莅天下者行此節,則民之生莫不受其澤,故曰:「脩之天下,其德乃普。」脩身者以此别君子小人,治鄉治邦莅天下者各以此科適觀息耗,則萬不失一。故曰:「以身觀身,以家觀家,以鄉觀鄉,以邦觀邦,以天下觀天下。吾奚以知天下之然也?以此。」

新字:竽也者,五声之長者也,故竽先則鍾瑟皆随,竽唱則諸楽皆和。今大姦作則俗之民唱,俗之民唱則小盗必和。故「服文采,帯利劒,厭飲食,而貨資有余者,是之謂盗竽矣」。人無愚智,莫不有趨舎。恬淡平安,莫不知禍福之所由来。得於好悪,怵於淫物,而後変乱。所以然者,引於外物,乱於玩好也。恬淡有趨舎之義,平安知禍福之計。而今也玩好変之,外物引之;引之而往,故曰「抜」。至聖人不然:一建其趨舎,雖見所好之物不能引,不能引之謂「不抜」;一於其情,雖有可欲之類神不為動,神不為動之謂「不脱」。為人子孫者,体此道以守宗廟,宗廟不滅之謂「祭祀不絶」。身以積精為徳,家以資財為徳,郷国天下皆以民為徳。今治身而外物不能乱其精神,故曰:「脩之身,其徳乃真。」真者,慎之固也。治家,無用之物不能動其計,則資有余,故曰:「脩之家,其徳有余。」治郷者行此節,則家之有余者益衆,故曰:「脩之郷,其徳乃長。」治邦者行此節,則郷之有徳者益衆,故曰:「脩之邦,其徳乃豊。」莅天下者行此節,則民之生莫不受其沢,故曰:「脩之天下,其徳乃普。」脩身者以此別君子小人,治郷治邦莅天下者各以此科適観息耗,則万不失一。故曰:「以身観身,以家観家,以郷観郷,以邦観邦,以天下観天下。吾奚以知天下之然也?以此。」

書き下し

竽なる者は、五声の長なる者なり。故に竽先んずれば則ち鍾瑟皆随ひ、竽唱ふれば則ち諸楽皆和す。今大姦作れば則ち俗の民唱ひ、俗の民唱へば則ち小盗必ず和す。故に「文采を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、而して貨資余り有る者、是れを之れ盗竽と謂ふ」と。人は愚智と無く、趨舎有らざるは莫し。恬淡平安なれば、禍福の由りて来たる所を知らざるは莫し。好悪に得られ、淫物に怵かされて、而る後に変乱す。然る所以の者は、外物に引かれ、玩好に乱さるればなり。恬淡なれば趨舎の義有り、平安なれば禍福の計を知る。而るに今や玩好之を変じ、外物之を引く。之を引きて往く、故に「抜く」と曰ふ。聖人に至りては然らず。一たび其の趨舎を建つれば、好む所の物を見ると雖も引くこと能はず。引くこと能はざる、之を「抜けず」と謂ふ。其の情に一なれば、欲すべきの類有りと雖も神為に動かず。神為に動かざる、之を「脱せず」と謂ふ。人の子孫為る者、此の道を体して以て宗廟を守れば、宗廟滅びず、之を「祭祀絶えず」と謂ふ。身は精を積むを以て徳と為し、家は資財を以て徳と為し、郷国天下は皆民を以て徳と為す。今身を治めて外物其の精神を乱すこと能はず、故に曰く、「之を身に修むれば、其の徳乃ち真なり」と。真なる者は、慎みの固きなり。家を治めて、無用の物其の計を動かすこと能はざれば、則ち資余り有り。故に曰く、「之を家に修むれば、其の徳余り有り」と。郷を治むる者此の節を行へば、則ち家の余り有る者益々衆し。故に曰く、「之を郷に修むれば、其の徳乃ち長し」と。邦を治むる者此の節を行へば、則ち郷の徳有る者益々衆し。故に曰く、「之を邦に修むれば、其の徳乃ち豊かなり」と。天下に莅む者此の節を行へば、則ち民の生、其の沢を受けざるは莫し。故に曰く、「之を天下に修むれば、其の徳乃ち普し」と。身を修むる者は此れを以て君子小人を別ち、郷を治め邦を治め天下に莅む者は各々此れを以て科して息耗を適観すれば、則ち万に一を失はず。故に曰く、「身を以て身を観、家を以て家を観、郷を以て郷を観、邦を以て邦を観、天下を以て天下を観る。吾奚を以て天下の然るを知るや。此れを以てなり」と。

現代語訳

竽(う、笙に似た管楽器)は、五つの音の長である。だから竽が先に鳴れば鐘や瑟(大型の琴)はみなそれに従い、竽が歌い出せばさまざまな楽器がみな調和する。いま大きな姦悪が起これば世俗の民が歌い出し、世俗の民が歌い出せば小さな盗人が必ず唱和する。だから「あやのある衣服を着て、鋭い剣を帯び、飲食に飽き、財貨が余っている者、これを盗人の竽(盗みの先導者)という」と言うのである。人は愚か者でも賢い者でも、進むべき所と退くべき所を持たない者はいない。心が淡泊で平安であれば、禍福がどこから来るかを知らない者はいない。好き嫌いにとらわれ、みだらな物に心を奪われて、それからおかしくなるのである。そうなるのは、外の物に引かれ、玩具や好みの品に乱されるからである。心が淡泊であれば進退の筋道があり、平安であれば禍福の見通しを知る。ところが今は玩具や好みの品がそれを変え、外の物がそれを引っぱる。引っぱられて行ってしまうので、「抜かれる」と言うのである。聖人はそうではない。一度その進退の筋道を立てれば、好きな物を見ても引っぱられることはない。引っぱられないこと、これを「抜かれない」という。その心が一つに定まっていれば、欲しくなるものがあっても精神はそのために動かない。精神が動かないこと、これを「離れない」という。人の子孫である者が、この道を体得して宗廟を守れば、宗廟は滅びない。これを「祭祀が絶えない」という。身は精気を積むことを徳とし、家は財産を徳とし、郷里や国や天下はみな民を徳とする。いま身を治めて外の物がその精神を乱すことができないので、「これを身に修めれば、その徳は真となる」と言うのである。真とは、慎みが固いことである。家を治めて、無用な物がその計算を動かすことができなければ、財産は余る。だから「これを家に修めれば、その徳は余りある」と言うのである。郷里を治める者がこの節度を行えば、余裕のある家はますます多くなる。だから「これを郷に修めれば、その徳は長く続く」と言うのである。国を治める者がこの節度を行えば、徳のある郷里はますます多くなる。だから「これを国に修めれば、その徳は豊かになる」と言うのである。天下に臨む者がこの節度を行えば、民の暮らしでその恩恵を受けないものはない。だから「これを天下に修めれば、その徳はあまねく行き渡る」と言うのである。身を修める者はこれによって君子と小人を区別し、郷里を治め国を治め天下に臨む者は、それぞれこれを基準として、増えているか減っているかを見極めれば、万に一つも失うことはない。だから「身によって身を見、家によって家を見、郷によって郷を見、国によって国を見、天下によって天下を見る。私はどうして天下がそうであることを知るのか。これによってである」と言うのである。

解説

「解老」篇の結びで、『老子』第五十三章の「盗竽」と第五十四章の「善く建つる者は抜けず」以下を注釈した一節です。竽は楽隊を先導する楽器で、大きな姦悪が先に鳴れば、世俗の民が歌い、小さな盗人が唱和する。だから贅沢に富む者を「盗竽」、盗みの先導者と呼ぶのだと韓非は説明します。後半では、外の物に心を引かれないことを「抜けず」、欲に精神が動かないことを「脱せず」と解き、その節度を身から家、郷、国、天下へと広げていけば徳が行き渡ると述べます。一人の節度が組織全体に広がり、その増減を見れば組織の盛衰が分かるという指摘は、リーダー自身の振る舞いの重さを教えてくれます。

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる