韓非子 / 解老第二十
損而不止則生盡,生盡之謂死,則十有三具者皆爲死死地也。故曰:「民之生,生而動,動皆之死地,之十有三。」是以聖人愛精神而貴處靜,不愛精神、不貴處靜,此甚大於兕虎之害。夫兕虎有域,動靜有時。避其域,省其時,則免其兕虎之害矣。民獨知兕虎之有爪角也,而莫知萬物之盡有爪角也,不免於萬物之害。何以論之?時雨降集,曠野閒靜,而以昬晨犯山川,則風露之爪角害之。事上不忠,輕犯禁令,則刑法之爪角害之。處鄉不節,憎愛無度,則爭闘之爪角害之。嗜慾無限,動靜不節,則痤疽之爪角害之。好用其私智而弃道理,則網羅之爪角害之。兕虎有域,而萬害有原,避其域,塞其原,則免於諸害矣。凡兵革者,所以備害也。重生者,雖入軍無忿爭之心;無忿爭之心,則無所用救害之備。此非獨謂野處之軍也,聖人之遊世也,無害人之心,則必無人害;無人害,則不備人。故曰:「陸行不遇兕虎。」入山不恃備以救害,故曰:「入軍不備甲兵。」遠諸害,故曰:「兕無所投其角,虎無所錯其爪,兵無所容其刃。」不設備而必無害,天地之道理也。體天地之道,故曰:「無死地焉。」動無死地,而謂之「善攝生」矣。愛子者慈於子,重生者慈於身,貴功者慈於事。
新字:損而不止則生尽,生尽之謂死,則十有三具者皆為死死地也。故曰:「民之生,生而動,動皆之死地,之十有三。」是以聖人愛精神而貴処静,不愛精神、不貴処静,此甚大於兕虎之害。夫兕虎有域,動静有時。避其域,省其時,則免其兕虎之害矣。民独知兕虎之有爪角也,而莫知万物之尽有爪角也,不免於万物之害。何以論之?時雨降集,曠野閒静,而以昏晨犯山川,則風露之爪角害之。事上不忠,軽犯禁令,則刑法之爪角害之。処郷不節,憎愛無度,則争闘之爪角害之。嗜慾無限,動静不節,則痤疽之爪角害之。好用其私智而弃道理,則網羅之爪角害之。兕虎有域,而万害有原,避其域,塞其原,則免於諸害矣。凡兵革者,所以備害也。重生者,雖入軍無忿争之心;無忿争之心,則無所用救害之備。此非独謂野処之軍也,聖人之遊世也,無害人之心,則必無人害;無人害,則不備人。故曰:「陸行不遇兕虎。」入山不恃備以救害,故曰:「入軍不備甲兵。」遠諸害,故曰:「兕無所投其角,虎無所錯其爪,兵無所容其刃。」不設備而必無害,天地之道理也。体天地之道,故曰:「無死地焉。」動無死地,而謂之「善摂生」矣。愛子者慈於子,重生者慈於身,貴功者慈於事。
書き下し
損して止まざれば則ち生尽く。生尽くる、之を死と謂ふ。則ち十有三具なる者皆死の死地と為るなり。故に曰く、「民の生くる、生きて動き、動けば皆死地に之く、之れ十有三」と。是を以て聖人は精神を愛して処静を貴ぶ。精神を愛さず処静を貴ばざるは、此れ兕虎の害よりも甚大なり。夫れ兕虎には域有り、動静には時有り。其の域を避け、其の時を省けば、則ち其の兕虎の害を免る。民は独り兕虎の爪角有るを知りて、万物の尽く爪角有るを知ること莫し。万物の害を免れず。何を以て之を論ずる。時雨降集し、曠野閒静なるに、昏晨を以て山川を犯せば、則ち風露の爪角之を害す。上に事へて忠ならず、軽く禁令を犯せば、則ち刑法の爪角之を害す。郷に処りて節ならず、憎愛度無ければ、則ち争闘の爪角之を害す。嗜欲限り無く、動静節ならざれば、則ち痤疽の爪角之を害す。好んで其の私智を用ゐて道理を棄つれば、則ち網羅の爪角之を害す。兕虎には域有りて、万害には原有り。其の域を避け、其の原を塞げば、則ち諸害を免る。凡そ兵革は、害に備ふる所以なり。生を重んずる者は、軍に入ると雖も忿争の心無し。忿争の心無ければ、則ち害を救ふの備へを用ゐる所無し。此れ独り野処の軍を謂ふのみに非ざるなり。聖人の世に遊ぶや、人を害するの心無ければ、則ち必ず人の害無し。人の害無ければ、則ち人に備へず。故に曰く、「陸行して兕虎に遇はず」と。山に入りて備へを恃みて以て害を救はず、故に曰く、「軍に入りて甲兵に備へず」と。諸害を遠ざく、故に曰く、「兕も其の角を投ずる所無く、虎も其の爪を錯く所無く、兵も其の刃を容るる所無し」と。備へを設けずして必ず害無きは、天地の道理なり。天地の道を体す、故に曰く、「死地無し」と。動きて死地無し、而して之を「善く生を摂す」と謂ふ。子を愛する者は子に慈なり。生を重んずる者は身に慈なり。功を貴ぶ者は事に慈なり。
現代語訳
損なわれて止まなければ、命は尽きる。命が尽きること、これを死という。そうなると、十三の器官はみな死に向かう死地となる。だから「民が生きるとき、生きて動き、動けばみな死地に向かう、それが十三である」と言うのである。だから聖人は精神を大切にし、静かにしていることを尊ぶ。精神を大切にせず、静かにしていることを尊ばないのは、野牛や虎の害よりもはなはだ大きい。野牛や虎には縄張りがあり、その動きと静まりには時がある。その縄張りを避け、その時を見極めれば、野牛や虎の害は免れられる。民は野牛や虎に爪や角があることだけを知って、あらゆるものにことごとく爪や角があることを知らない。だから万物の害を免れない。どうしてそう言えるのか。季節の雨が降りしきり、広い野が静まり返っているのに、夕暮れや夜明けに山や川を越えれば、風や露の爪や角がその人を害する。君主に仕えて忠実でなく、軽々しく禁令を犯せば、刑法の爪や角がその人を害する。郷里で暮らして節度がなく、好き嫌いに限度がなければ、争いの爪や角がその人を害する。欲望に限りがなく、動くことと静まることに節度がなければ、できものの爪や角がその人を害する。好んで自分の浅知恵を用いて道理を捨てれば、法の網の爪や角がその人を害する。野牛や虎には縄張りがあり、あらゆる害には原因がある。その縄張りを避け、その原因をふさげば、さまざまな害を免れる。およそ武器や甲冑は、害に備えるためのものである。命を重んじる者は、軍に入っても怒り争う心がない。怒り争う心がなければ、害から身を救う備えを用いる必要もない。これは野外にいる軍のことだけを言っているのではない。聖人が世の中を渡っていくとき、人を害する心がなければ、必ず人から害されることはない。人から害されなければ、人に備えることもない。だから「陸を行っても野牛や虎に出会わない」と言うのである。山に入っても備えを頼りに害から身を救おうとはしない。だから「軍に入っても甲冑や武器に備えない」と言うのである。さまざまな害を遠ざけるので、「野牛もその角を突き立てる所がなく、虎もその爪をかける所がなく、武器もその刃を差し入れる所がない」と言うのである。備えを設けなくても必ず害がないのは、天地の道理である。天地の道を体得しているので、「死地がない」と言うのである。動いても死地がない、これを「よく生を養う」というのである。子を愛する者は子に慈しみ深い。命を重んじる者は自分の身に慈しみ深い。功を尊ぶ者は仕事に慈しみ深い。
解説
関連する章句
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老子・第50章生に出でて死に入る。生の徒は十に三有り、死の徒は十に三有り、人の生きて之を死地に動かすも亦た十に三有り。夫れ何の故ぞ。其の生を生とすることの厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を摂する者は、陸行して兕虎に遇わず、軍に入りて甲兵を被らず。兕は其の角を投ずる所無く、虎は其の爪を措く所無く、兵は其の刃を容るる所無し。夫れ何の故ぞ。其の死地無きを以てなり。
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『韓非子』解老第二十道は諸を譬ふれば水の若し。溺るる者は多く之を飲めば即ち死し、渇する者は適に之を飲めば即ち生く。之を譬ふれば剣戟の若し。愚人は以て忿りを行へば則ち禍生じ、聖人は以て暴を誅すれば則ち福成る。故に之を得て以て死し、之を得て以て生き、之を得て以て敗れ、之を得て以て成る。人は生象を見ること希なり。而して死象の骨を得て、其の図を案じて以て其の生を想ふ。故に諸人の以て意想する所の者を皆之を「象」と謂ふなり。今道は聞見を得べからずと雖も、聖人は其の見功を執りて以て其の形を処見す。故に曰く、「無状の状、無物の象」と。凡そ理は、方円・短長・麤靡・堅脆の分なり。故に理定まりて後に道を得べきなり。故に定理には存亡有り、死生有り、盛衰有り。夫れ物の一たび存し一たび亡び、乍ち死し乍ち生き、初め盛んにして後に衰ふる者は、常と謂ふべからず。唯夫れ天地の剖判と具に生じ、天地の消散に至るまで死せず衰へざる者を「常」と謂ふ。而して常なる者は易ふる攸無く、定理無し。定理無ければ、常所に在らず。是を以て道ふべからざるなり。聖人は其の玄虚を観、其の周行を用ゐて、強ひて之に字して「道」と曰ふ。然して論ずべし。故に曰く、「道の道ふべきは、常の道に非ざるなり」と。人は生に始まりて死に卒る。始まる、之を出と謂ひ、卒る、之を入と謂ふ。故に曰く、「生に出でて死に入る」と。人の身は三百六十節、四肢・九竅、其の大具なり。四肢と九竅と十有三なる者、十有三なる者の動静は尽く生に属す。属する、之を徒と謂ふなり。故に曰く、生の徒は十有三なる者なりと。死に至るや、十有三具なる者は皆還りて之を死に属す。死の徒も亦十三有り。故に曰く、「生の徒十有三、死の徒十有三」と。凡そ民の生生して、生くる者は固より動く。動き尽くれば則ち損す。而して動きて止まざるは、是れ損して止まざるなり。
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『韓非子』解老第二十衆人は多くして聖人は寡し。寡の衆に勝たざるは、数なり。今挙動して天下と之れ讎を為すは、全身長生の道に非ざるなり。是を以て軌節を行ひて之を挙ぐるなり。故に曰く、「方にして割かず、廉にして穢さず、直にして肆ならず、光りて耀かず」と。聡明睿智は、天なり。動静思慮は、人なり。人なる者は、天明に乗じて以て視、天聡に寄りて以て聴き、天智に託して以て思慮す。故に視ること強ければ、則ち目明らかならず。聴くこと甚だしければ、則ち耳聡からず。思慮度を過ぐれば、則ち智識乱る。目明らかならざれば、則ち黒白の分を決すること能はず。耳聡からざれば、則ち清濁の声を別つこと能はず。智識乱るれば、則ち得失の地を審らかにすること能はず。目黒白の色を決すること能はざる、則ち之を盲と謂ふ。耳清濁の声を別つこと能はざる、則ち之を聾と謂ふ。心得失の地を審らかにすること能はざる、則ち之を狂と謂ふ。盲なれば則ち昼日の険を避くること能はず。聾なれば則ち雷霆の害を知ること能はず。狂なれば則ち人間の法令の禍を免るること能はず。書の所謂「人を治む」とは、動静の節に適ひ、思慮の費を省くなり。所謂「天に事ふ」とは、聡明の力を極めず、智識の任を尽くさざるなり。苟も極め尽くせば、則ち神を費やすこと多し。神を費やすこと多ければ、則ち盲聾悖狂の禍至る。是を以て之を嗇しむ。之を嗇しむとは、其の精神を愛しみ、其の智識を嗇しむなり。故に曰く、「人を治め天に事ふるは嗇に如くは莫し」と。衆人の神を用ゐるや躁なり。躁なれば則ち費やすこと多し。費やすこと多き、之を侈と謂ふ。聖人の神を用ゐるや静なり。静なれば則ち費やすこと少なし。費やすこと少なき、之を嗇と謂ふ。嗇の謂ひは術なり、道理に生ず。夫れ能く嗇しむは、是れ道に従ひて理に服する者なり。衆人は患ひに離り、禍に陥りて、猶未だ退くことを知らずして、道理に服従せず。聖人は未だ禍患の形を見ずと雖も、虚無にして道理に服従す。以て蚤服と称す。故に曰く、「夫れ謂ふ嗇、是を以て蚤服す」と。
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『韓非子』解老第二十子に慈なる者は敢へて衣食を絶たず。身に慈なる者は敢へて法度を離れず。方円に慈なる者は敢へて規矩を舎てず。故に兵に臨みて士吏に慈なれば則ち戦ひて敵に勝ち、器械に慈なれば則ち城堅固なり。故に曰く、「慈なれば、戦ふに於ては則ち勝ち、以て守れば則ち固し」と。夫れ能く自ら全くして尽く万物の理に随ふ者は、必ず且に天生有らんとす。天生なる者は、生心なり。故に天下の道は尽く之れ生なり。若し慈を以て之を衛れば、事必ず万全にして、挙げて当たらざる無し、則ち之を宝と謂ふ。故に曰く、「吾に三宝有り、持して之を宝とす」と。書の所謂「大道」なる者は、端道なり。所謂貌「施」なる者は、邪道なり。所謂「径」大なる者は、佳麗なり。佳麗なる者は、邪道の分なり。「朝甚だ除す」とは、獄訟繁きなり。獄訟繁ければ則ち田荒る。田荒るれば則ち府倉虚し。府倉虚しければ則ち国貧し。国貧しくして民俗淫侈なり。民俗淫侈なれば則ち衣食の業絶ゆ。衣食の業絶ゆれば則ち民巧詐を飾ること無きを得ず。巧詐を飾れば則ち采文を知る。采文を知る、之を「文采を服す」と謂ふ。獄訟繁く、倉廩虚しくして、淫侈を以て俗と為す有れば、則ち国の傷つくや利剣を以て之を刺すが若し。故に曰く、「利剣を帯ぶ」と。諸夫の智故を飾りて以て国を傷つくるに至る者は、其の私家必ず富む。私家必ず富む、故に曰く、「資貨余り有り」と。国に是くの若き者有れば、則ち愚民術無くして之に效はざるを得ず。之に效へば則ち小盗生ず。
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『韓非子』解老第二十有道の君は、外は怨讎を隣敵に無くして、内は徳沢を人民に有す。夫れ外に怨讎を隣敵に無き者は、其の諸侯に遇ふや外に礼義有り。内に徳沢を人民に有する者は、其の人事を治むるや本を務む。諸侯に遇ふに礼義有れば、則ち役希に起こる。民事を治むるに本を務むれば、則ち淫奢止む。凡そ馬の大いに用ゐらるる所以の者は、外は甲兵に供し、内は淫奢に給するなり。今有道の君は、外は希に甲兵を用ゐて、内は淫奢を禁ず。上は馬を戦闘逐北に事とせずして、民は馬を以て遠く淫らに物を通ぜず。力を積むは唯田疇なり。力を田疇に積めば、必ず且に糞灌せんとす。故に曰く、「天下に道有れば、走馬を却けて以て糞す」と。人君道無ければ、則ち内は其の民を暴虐して、外は其の隣国を侵欺す。内暴虐すれば則ち民の産絶え、外侵欺すれば則ち兵数々起こる。民の産絶ゆれば則ち畜生少なく、兵数々起これば則ち士卒尽く。畜生少なければ則ち戎馬乏しく、士卒尽くれば則ち軍危殆なり。戎馬乏しければ則ち牸馬出で、軍危殆なれば則ち近臣役せらる。馬は、軍の大用なり。郊は、其の近きを言ふなり。今軍に給するの具を牸馬近臣に於てする所以なり。故に曰く、「天下に道無ければ、戎馬郊に生ず」と。人欲有れば則ち計会乱る。計会乱れて欲有ること甚だし。欲有ること甚だしければ則ち邪心勝つ。邪心勝てば則ち事経絶ゆ。事経絶ゆれば則ち禍難生ず。是に由りて之を観れば、禍難は邪心に生じ、邪心は可欲に誘はる。可欲の類は、進みては良民をして姦を為さしめ、退きては善人をして禍有らしむ。姦起これば則ち上は弱君を侵し、禍至れば則ち民人多く傷つく。然らば則ち可欲の類は、上は弱君を侵して下は人民を傷つく。夫れ上は弱君を侵して下は人民を傷つくる者は、大罪なり。故に曰く、「禍は欲すべきより大なるは莫し」と。是を以て聖人は五色に引かれず、声楽に淫せず、明君は玩好を賤しみて淫麗を去る。
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『韓非子』解老第二十故に理を以て之を観れば、大衆を事として数々之を揺らせば、則ち功を成すこと少なし。大器を蔵して数々之を徒せば、則ち敗傷すること多し。小鮮を烹て数々之を撓せば、則ち其の沢を賊ふ。大国を治めて数々法を変ずれば、則ち民之に苦しむ。是を以て有道の君は静を貴びて、法を変ずることを重んぜず。故に曰く、「大国を治むる者は小鮮を烹るが若し」と。人は疾に処れば医を貴び、禍有れば鬼を畏る。聖人上に在れば、則ち民欲少なし。民欲少なければ、則ち血気治まりて挙動理あり。挙動理あれば、則ち禍害少なし。夫れ内に痤疽癉痔の害無くして、外に刑罰法誅の禍無き者は、其の鬼を軽恬すること甚だし。故に曰く、「道を以て天下に莅めば、其の鬼神ならず」と。治世の民は、鬼神と相害せず。故に曰く、「其の鬼神ならざるに非ざるなり、其の神人を傷つけざるなり」と。鬼祟りて人を疾ましむる、之を鬼人を傷つくと謂ふ。人之を逐除する、之を人鬼を傷つくと謂ふなり。民法令を犯す、之を民上を傷つくと謂ふ。上民を刑戮する、之を上民を傷つくと謂ふ。民法を犯さざれば、則ち上も亦刑を行はず。上刑を行はざる、之を上人を傷つけずと謂ふ。故に曰く、「聖人も亦民を傷つけず」と。上民と相害せず、而して人鬼と相傷つけず。故に曰く、「両ながら相傷つけず」と。民敢へて法を犯さざれば、則ち上内は刑罰を用ゐずして、外は其の産業を利することを事とせず。上内は刑罰を用ゐずして、外は其の産業を利することを事とせざれば、則ち民蕃息す。民蕃息して畜積盛んなり。民蕃息して畜積盛んなる、之を徳有りと謂ふ。凡そ所謂崇とは、魂魄去りて精神乱るるなり。精神乱るれば則ち徳無し。鬼人に祟らざれば則ち魂魄去らず。魂魄去らずして精神乱れず。精神乱れざる、之を徳有りと謂ふ。上畜積を盛んにして鬼其の精神を乱さざれば、則ち徳尽く民に在り。故に曰く、「両ながら相傷つけざれば、則ち徳交々帰す」と。其の徳上下交々盛んにして倶に民に帰するを言ふなり。