戦国策 / 齊人李伯見孝成王
齊人李伯見孝成王。成王說之,以為代郡守。而居無幾何,人告之反。孝成王方饋,不墮食。無幾何,告者復至,孝成王不應。已,乃使使者言:「齊舉兵擊燕,恐其以擊燕為名,而以兵襲趙,故發兵自備。今燕、齊已合,臣請要其敝,而地可多割。」自是之後,為孝成王從事於外者,無自疑於中者。
新字:斉人李伯見孝成王。成王説之,以為代郡守。而居無幾何,人告之反。孝成王方饋,不堕食。無幾何,告者復至,孝成王不応。已,乃使使者言:「斉舉兵擊燕,恐其以擊燕為名,而以兵襲趙,故発兵自備。今燕、斉已合,臣請要其敝,而地可多割。」自是之後,為孝成王従事於外者,無自疑於中者。
書き下し
斉人李伯孝成王に見ゆ。成王之を説び、以て代郡守と為す。而して居ること幾ばくも無くして、人之が反すと告ぐ。孝成王方に饋するに、食を墮とさず。幾ばくも無くして、告ぐる者復た至るも、孝成王応ぜず。已にして、乃ち使者をして言わしめて曰く、「斉兵を挙げて燕を撃つ、恐らくは其の燕を撃つを以て名と為して、兵を以て趙を襲わんとするを、故に兵を発して自ら備う。今燕・斉已に合す、臣請う其の敝に要して、地多く割くべし」と。是より之より後、孝成王の為に外に従事する者、自ら中に疑わるる無し。
現代語訳
斉の人である李伯が趙の孝成王に謁見した。孝成王は彼を気に入り、代郡の郡守に任じた。しかし赴任してからいくらも経たないうちに、ある人が「李伯が謀反を企てている」と告げてきた。孝成王はちょうど食事の最中であったが、箸を止めることもなく食事を続けた。しばらくして、告げ口をする者がまた現れたが、孝成王は取り合わなかった。やがて、王は使者を遣わして李伯に伝えさせた。「斉が兵を挙げて燕を攻撃している。おそらく燕を攻めるという名目を借りて、実際には兵を転じて趙を襲おうとしているのではないかと恐れ、それゆえに兵を発して自ら備えを固めたのだろう。今、燕と斉との戦いはすでに始まっている。私(李伯)にその機会をとらえさせていただければ、多くの領地を切り取ることができましょう。」これ以後、孝成王のために国外で任務にあたる家臣たちは、自分が朝廷内で疑われるのではないかという不安を抱くことがなくなった。
解説
この章句が説くこと
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