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海国兵談抄録 / 第十六巻 略書・書を読み偏りを避ける、兵の心印

只書を讀て和漢蠻夷古今興廢の損益得失を見て自知也、故に論語に、經濟の事を述て、所損益可知と言ひ、史記に兵の事を言て、霍去病が顧方畧如何耳、不至學古兵法と云は、其道に通ぜりと云べき歟、然ながら唐山は其人性甚柔鈍也、故に先王聖人の兵法と云ども、理は精密にして、事は描き事どもあり、然る故に唐虞以來三千年の間、北胡に襲ひ苦められて、明の末に至て、終に韃靼に合せられて、頭髮を剃られ、衣服を替られたり、是軍理而已を貴て、戰弱き故也、都て軍理而已に泥むは、戰の弱くなる基なれば、小子が大に忌嫌ふ所也、今も軍學をする人、必唐山流の軍理而已に陷る事勿れ、亦日本諸流の軍書は、大半事不足にして、軍事而已も全く不調に似たり、然るを況んや文武兼備の事に於てや、然る時は柱に膠したる如く、一流而已に泥むをば拙とすべし、右にも言し如く、和漢及び和蘭等の軍書を取交、文武相兼て、工夫を加、能軍情を會得し、器械をも制作し、其上に能操縱を致べし、然るに操練而已に泥めば、亦大に唐山流に陷て、戰の態、弱くなる事有、心得あるべし、何れにも戰鬪の態を上手に爲るは、操練にあり、士卒の心氣を强くするは、今日の政にあり、能彼是の交を斟酌して、自ら極所に至るべし、是を兵の心印ト云、大尾、時天明六年丙午夏

新字:只書を読て和漢蠻夷古今興廃の損益得失を見て自知也、故に論語に、経済の事を述て、所損益可知と言ひ、史記に兵の事を言て、霍去病が顧方略如何耳、不至学古兵法と云は、其道に通ぜりと云べき歟、然ながら唐山は其人性甚柔鈍也、故に先王聖人の兵法と云ども、理は精密にして、事は描き事どもあり、然る故に唐虞以来三千年の間、北胡に襲ひ苦められて、明の末に至て、終に韃靼に合せられて、頭髪を剃られ、衣服を替られたり、是軍理而已を貴て、戦弱き故也、都て軍理而已に泥むは、戦の弱くなる基なれば、小子が大に忌嫌ふ所也、今も軍学をする人、必唐山流の軍理而已に陥る事勿れ、亦日本諸流の軍書は、大半事不足にして、軍事而已も全く不調に似たり、然るを況んや文武兼備の事に於てや、然る時は柱に膠したる如く、一流而已に泥むをば拙とすべし、右にも言し如く、和漢及び和蘭等の軍書を取交、文武相兼て、工夫を加、能軍情を会得し、器械をも制作し、其上に能操縦を致べし、然るに操練而已に泥めば、亦大に唐山流に陥て、戦の態、弱くなる事有、心得あるべし、何れにも戦闘の態を上手に為るは、操練にあり、士卒の心気を強くするは、今日の政にあり、能彼是の交を斟酌して、自ら極所に至るべし、是を兵の心印ト云、大尾、時天明六年丙午夏

書き下し

只書を讀て和漢蠻夷古今興廢の損益得失を見て自知也、故に論語に、經濟の事を述て、所損益可知と言ひ、史記に兵の事を言て、霍去病が顧方畧如何耳、不至學古兵法と云は、其道に通ぜりと云べき歟、然ながら唐山は其人性甚柔鈍也、故に先王聖人の兵法と云ども、理は精密にして、事は描き事どもあり、然る故に唐虞以來三千年の間、北胡に襲ひ苦められて、明の末に至て、終に韃靼に合せられて、頭髮を剃られ、衣服を替られたり、是軍理而已を貴て、戰弱き故也、都て軍理而已に泥むは、戰の弱くなる基なれば、小子が大に忌嫌ふ所也、今も軍學をする人、必唐山流の軍理而已に陷る事勿れ、亦日本諸流の軍書は、大半事不足にして、軍事而已も全く不調に似たり、然るを況んや文武兼備の事に於てや、然る時は柱に膠したる如く、一流而已に泥むをば拙とすべし、右にも言し如く、和漢及び和蘭等の軍書を取交、文武相兼て、工夫を加、能軍情を會得し、器械をも制作し、其上に能操縱を致べし、然るに操練而已に泥めば、亦大に唐山流に陷て、戰の態、弱くなる事有、心得あるべし、何れにも戰鬪の態を上手に爲るは、操練にあり、士卒の心氣を强くするは、今日の政にあり、能彼是の交を斟酌して、自ら極所に至るべし、是を兵の心印ト云、大尾、時天明六年丙午夏

現代語訳

ただ書を読み、日本・中国・異国、古今の興廃の損益と得失を見て、自ら知るのです。だから「論語」には経済のことを述べて「損益は知るべきなり」と言い、「史記」には兵のことを言って、霍去病が「方略がどうかを顧みるだけだ、古い兵法を学ぶには及ばない」と言ったのは、その道に通じていたと言うべきでしょうか。しかし、中国は人の性質が非常に柔らかく鈍いのです。だから先王聖人の兵法といっても、理は精密ですが、実際には描きがたいことが多いのです。そのため唐虞(堯舜)以来の三千年の間、北方の胡に襲われ苦しめられて、明の末になってついに韃靼に併合され、頭髪を剃られ、衣服を替えられました。これは軍理ばかりを貴んで、戦いが弱かったからです。総じて軍理ばかりにこだわることは、戦いが弱くなる基なので、私が大いに忌み嫌うところです。今も軍学をする人は、必ず中国流の軍理ばかりに陥ってはなりません。また日本の諸流の軍書は、大半が事足りず、軍事だけでも全く調っていないように思われます。ましてや文武兼備のことはなおさらです。そうであれば、柱に膠するように(琴の柱を固めて音を変えられないように)、一流にばかりこだわるのは拙いこととすべきです。右にも言ったように、日本・中国およびオランダなどの軍書を取り交ぜ、文武を兼ねて工夫を加え、よく軍情を会得し、器械も制作して、そのうえでよく操縦すべきです。ところが操練ばかりにこだわれば、また大いに中国流に陥って、戦いのわざが弱くなることもあるので、心得ておかなければなりません。いずれにせよ、戦闘のわざを上手にするには操練にあり、士卒の心気を強くするには今日の政治にあります。あれこれの交わりをよく斟酌して、自ら極所に至るべきです。これを兵の心印(心の奥義)といいます。終わり。時に天明六年(丙午)夏。

解説

結びで子平は、書を読んで古今の損益得失を見ること、一つの流派や理論にこだわらず、各国の知識を取り交ぜて工夫すること、そして理論と訓練のどちらかに偏らないことを強調します。さらに士卒の心気を強くするのは日々の政治にあるとも述べます。つまり現場の士気は、日々の運営の質で決まるということです。管理職は、理論にも経験にも偏らず、複数の知見を比較して自分の組織に合う答えを見出す学びを続けること。そして部下の士気を、日常のマネジメントによって支えることが肝要です。

この章句が説くこと

海国兵談抄録林子平学び偏らない理論と訓練士気

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