価原 / 『価原』漢の高祖と叔孫通の礼の力
サレドモ國家長久永世平安ノ道禮樂制度ニ非レバ立コト能ハズサレバ漢ノ高祖身匹夫ヨリ興リ秦ヲ亡シ楚ヲ斃シ一時ノ豪傑ヲ役使スルコト嬰兒ヲ掌上ニ弄スルガ如クナリシカドモ禮制立ザリシカバ宴ヲ賜フ折節ナドハ群臣功ヲ爭ヒ劍ヲ拔キ柱ヲ擊チ狼籍如何トモスベカラズ叔孫通コレガ爲ニ弟子ト禮ヲ肆ハシ終ニ朝議ヲ引シカバ一朝肅然トシテ震恐シ大ニ敬ヒ謹シメリ高祖大ニ說ンデ吾迺今日皇帝ノ貴トスルヲシルトアリシナリ高祖ハ昔ノ高祖也秦楚ヲ挫キシ勢ニモ及バヌ所ヲ治ルハ斯文ノ德也禮敎ハ人ヲ未然ニ治ル者ニシテ政刑ハ罪ヲ已然ニ戒ムル者也已ニ然ルヲ戒ムレバ民免カレテ恥ルコトナシ未然ヲ治レバ恥有テ且格シ廉恥禮讓ノ風興ラザレバイカデカ利用厚生ノ道行レン噫孔子ノ聖ヲ以テダニ行レザリシコトナレバトカク人ノ請合ヌモ尤也
新字:サレドモ国家長久永世平安ノ道礼楽制度ニ非レバ立コト能ハズサレバ漢ノ高祖身匹夫ヨリ興リ秦ヲ亡シ楚ヲ斃シ一時ノ豪傑ヲ役使スルコト嬰児ヲ掌上ニ弄スルガ如クナリシカドモ礼制立ザリシカバ宴ヲ賜フ折節ナドハ群臣功ヲ争ヒ剣ヲ抜キ柱ヲ撃チ狼籍如何トモスベカラズ叔孫通コレガ為ニ弟子ト礼ヲ肆ハシ終ニ朝議ヲ引シカバ一朝粛然トシテ震恐シ大ニ敬ヒ謹シメリ高祖大ニ説ンデ吾迺今日皇帝ノ貴トスルヲシルトアリシナリ高祖ハ昔ノ高祖也秦楚ヲ挫キシ勢ニモ及バヌ所ヲ治ルハ斯文ノ徳也礼教ハ人ヲ未然ニ治ル者ニシテ政刑ハ罪ヲ已然ニ戒ムル者也已ニ然ルヲ戒ムレバ民免カレテ恥ルコトナシ未然ヲ治レバ恥有テ且格シ廉恥礼譲ノ風興ラザレバイカデカ利用厚生ノ道行レン噫孔子ノ聖ヲ以テダニ行レザリシコトナレバトカク人ノ請合ヌモ尤也
書き下し
されども国家長久、永世平安の道、礼楽制度に非ざれば立つこと能わず。されば漢の高祖、身匹夫より興り、秦を亡ぼし、楚を斃し、一時の豪傑を役使すること、嬰児を掌上に弄ぶがごとくなりしかども、礼制立たざりしかば、宴を賜う折節などは、群臣功を争い、剣を抜き柱を撃ち、狼籍いかんともすべからず。叔孫通、これがために弟子と礼を肆わし、ついに朝議を引きしかば、一朝粛然として震恐し、大いに敬い謹しめり。高祖大いに説んで「吾、乃ち今日、皇帝の貴きを知る」とありしなり。高祖は昔の高祖なり。秦楚を挫きし勢いにも及ばぬ所を治むるは、斯文の徳なり。礼教は人を未然に治むる者にして、政刑は罪を已然に戒むる者なり。已に然るを戒むれば、民免れて恥ずることなし。未然を治むれば、恥あり、かつ格し。廉恥礼譲の風興らざれば、いかでか利用厚生の道行われん。ああ孔子の聖をもってだに行われざりしことなれば、とかく人の請け合わぬも尤もなり。
現代語訳
しかしながら、国家が長く続き、永く平安であるための道は、礼楽の制度でなければ立てることができない。そこで漢の高祖は、一介の庶民から身を起こして、秦を滅ぼし、楚を倒し、一時の豪傑たちを使うことは、赤子を手の上でもてあそぶようであったが、礼の制度が立っていなかったので、宴を賜るおりなどには、家臣たちが功を争って、剣を抜き、柱を打ち、乱暴が手に負えなかった。叔孫通がこのために、弟子たちと礼の稽古をして、ついに朝議を行ったところ、朝廷一同がひっそりと静まり、震え恐れて、大いに敬い、慎んだ。高祖は大いに喜んで「私はこのたび、今日はじめて皇帝の貴さを知った」と言ったのである。高祖は昔の高祖である。秦や楚をくじいた勢いでも及ばないところを治めるのは、斯文の徳である。礼の教えは人を未然に治めるもので、政治や刑罰は罪が起きてからこれを戒めるものである。すでに起きたことを戒めると、民は罰を免れても恥じることがない。未然に治めると、恥を知り、さらに正しくなる。廉恥と礼譲の風が興らなければ、どうして利用厚生の道が行われようか。ああ、孔子の聖をもってしても行われなかったことであるから、とかく人が請け合わないのも、もっともである。
解説

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十八史略・『十八史略』漢・叔孫通・礼を整えて皇帝の貴きを知る帝、秦の苛法を懲り、簡易を為す。群臣、酒を飲みて功を争い、酔いて或いは妄りに呼び、剣を抜きて柱を撃つ。叔孫通、上に説きて曰く、儒者は与に進み取り難きも、与に成を守るべし。願わくは魯の諸生を徴して、共に朝儀を起こさん、と。上、之に従う。魯に両生有り、行くを肯んぜず、曰く、礼楽は徳を積みて而る後に興すべきなり、と。通、徴する所と上の左右と弟子百余人と与に、為に蕝を縣げて野外に之を習う。七年、長楽宮成り、諸侯・群臣皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王より以下、吏六百石に至るまで、次を以て賀を奉ず。振恐し肅敬せざる莫し。礼畢わりて、法酒を置く。御史、法を執り、儀の如くならざる者を挙げ、輒ち引き去る。朝を竟り酒を罷むるまで、敢えて讙譁し礼を失う者無し。上曰く、吾乃ち今日、皇帝の貴きを知れり、と。通を拝して太常と為す。
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価原・『価原』周公と王莽・衣食足りて礼節を知る周公は礼楽を制作して周家八百年の基業を開き、王莽は礼楽を制作してその身をだに保たざりけり。礼は、その人を待ちて行わるる者にして、その人に非ざれば、事を援るも知るべからず。たとい事を援るとも、援るはその人の罪にして、礼教の罪にあらず。詩にも「これに飲ませ、これに食わせ、これを教え、これを誨う」といい、論語にも「既に富めり、これを教えん」といい、孟子にも「恒産ある者は必ず恒心あり、恒産なき者は必ず恒心なし」ともいえり。誠に、児は飢えたるに啼き、妻は凍えたるに号かば、人、夷斉に非ざるよりは、孰れか廉恥の操を保たん。晋営、正しく聞きき。去ぬる荒年、小民飢ゆる者どもの多かりし中に、某の所の一民、飢えの忍び難くてや有りけん、人の圃なる蕪を抜きけるを、その主見とがめければ、最も恥ずかしく思い、衣打ちかづきて臥しぬるが、ついに食を絶ちて死しけるとぞ。かばかり猾介の人にても、飢寒には操を誤つなり。この処をよくよく考うれば、罪は人々己が造る様なれども、民に上たる人の徳より起こることなり。
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史記 劉敬叔孫通列伝漢の五年、已に天下を并す。諸侯共に漢王を定陶に尊びて皇帝と為す。叔孫通其の儀號を就す。高帝悉く秦の苛なる儀法を去りて、簡易と為す。群臣酒を飲みて功を爭ひ、醉ひて或いは妄りに呼び、劍を拔きて柱を擊つ。高帝之を患ふ。叔孫通、上の益々之を厭ふを知るや、上に說きて曰く、「夫れ儒者は與に進取し難きも、與に守成すべし。臣願はくは魯の諸生を徵し、臣の弟子と共に朝儀を起こさん」と。高帝曰く、「難きこと無きを得んや」と。叔孫通曰く、「五帝は樂を異にし、三王は禮を同じくせず。禮なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり。故に夏・殷・周の禮の因りて損益する所知るべき者は、相復せざるを謂ふなり。臣願はくは頗る古禮と秦儀とを采りて之を雜へ就さん」と。上曰く、「試みに之を為すべし。知り易からしめ、吾が能く行ふ所を度りて之を為せ」と。
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史記 礼書秦の天下を有つに至りて、悉く六国の礼儀を内れ、其の善を采択す、聖制に合はずと雖も、其の君を尊び臣を抑へ、朝廷済済たるは、古より以来に依る。高祖に至りて、光に四海を有ち、叔孫通頗る増益減損する所有れども、大抵皆秦の故を襲ふ。天子の称号より下は佐僚及び宮室官名に至るまで、変改する所少なし。孝文即位し、有司議して儀礼を定めんと欲す、孝文は道家の学を好み、以為へらく繁礼飾貌は治に益無し、躬化するは謂何ぞやと、故に之を罷め去る。孝景の時、御史大夫晁錯は世務刑名に明らかにして、数々孝景に干諫して曰く、「諸侯藩輔は、臣子と一例なるは、古今の制なり。今大国は専ら治めて政を異にし、京師に稟けず、恐らくは後に伝ふべからず」と。孝景其の計を用ひて、六国畔逆し、錯を以て首名と為す、天子錯を誅して以て難を解く。事は袁盎の語中に在り。是の後官者は交はりを養ひ禄に安んずるのみ、敢へて復た議する莫し。今上即位し、儒術の士を招致し、共に儀を定めしむるも、十余年就らず。或ひと言ふ、古者太平にして、万民和喜し、瑞応辨く至り、乃ち風俗を采りて、制作を定むと。上之を聞き、御史に制詔して曰く、「蓋し命を受けて王たるは、各々由りて興る所有り、路を殊にして帰を同じくす、民に因りて作り、俗を追ひて制を為すを謂ふなり。議者咸太古を称す、百姓何をか望まん。漢も亦一家の事なり、典法伝はらずんば、子孫を謂何せん。化の隆なる者は閎博、治の浅き者は褊狭、勉めざるべけんや」と。乃ち太初の元を以て正朔を改め、服色を易へ、太山を封じ、宗廟百官の儀を定め、以て典常と為し、之を後に垂ると云ふ。礼は人より起こる。人生まれて欲有り、欲して得ざれば則ち忿り無き能はず、忿りて度量無ければ則ち争ひ、争へば則ち乱る。
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史記 劉敬叔孫通列伝遂に徵す所の三十人と西し、及び上の左右の學を為す者と其の弟子百餘人と、綿蕞(めんぜつ)を野外に為す。之を習ふこと月餘、叔孫通曰く、「上試みに觀るべし」と。上既に觀て、禮を行はしめて曰く、「吾能く此を為さん」と。乃ち群臣をして習肄せしめ、十月に會す。漢の七年、長樂宮成り、諸侯群臣皆十月に朝す。儀は、平明に先だち、謁者禮を治め、引きて次を以て殿門に入らしむ。廷中には車騎步卒を陳ねて宮を衛らしめ、兵を設け旗志を張る。傳へて「趨れ」と言ふ。殿下には郎中陛を俠み、陛ごとに數百人。功臣・列侯・諸將軍・軍吏は次を以て西方に陳なりて東鄉し、文官は丞相以下東方に陳なりて西鄉す。大行九賓を設け、臚傳す。是に於いて皇帝輦にて房を出づ。百官職を執りて警を傳へ、諸侯王以下吏六百石に至るまでを引きて次を以て賀を奉ぜしむ。諸侯王より以下、振恐して肅敬せざる莫し。禮畢はるに至りて、復た法酒を置く。諸々の殿上に侍坐する者、皆伏して首を抑へ、尊卑の次を以て起ちて壽を上る。觴九たび行き、謁者「酒を罷めよ」と言ふ。御史法を執り、儀の如くならざる者を舉げて輒ち引き去る。朝を竟へて酒を置くに、敢へて讙譁して禮を失ふ者無し。是に於いて高帝曰く、「吾乃ち今日皇帝為るの貴きを知れり」と。乃ち叔孫通を拜して太常と為し、金五百斤を賜ふ。叔孫通因りて進みて曰く、「諸弟子儒生、臣に隨ふこと久し。臣と共に儀を為す。願はくは陛下之を官とせよ」と。高帝悉く以て郎と為す。叔孫通出でて、皆五百斤の金を以て諸生に賜ふ。諸生乃ち皆喜びて曰く、「叔孫生は誠に聖人なり。當世の要務を知る」と。漢の九年、高帝叔孫通を徙して太子太傅と為す。漢の十二年、高祖趙王如意を以て太子に易へんと欲す。叔孫通上を諫めて曰く、「昔者晉の獻公、驪姬の故を以て太子を廢し、奚齊を立つ。晉國亂るること數十年、天下の笑ひと為る。
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『長短経』卑政故に叔孫通礼を起こさんと欲す。漢の高帝曰く「難きこと無きを得んか」と。対えて曰く「夫れ礼なる者は、時世人情に因りて之が節文を為す者なり」と。張釈之、便宜の事を言う。文帝曰く「之を卑くせよ。甚だしき高論無く、今施行すべからしめよ」と。是に由りて之を言えば、夫れ理むる者の、時俗の務めに因らずして奇異を貴ぶは、是れ餓者に百日以て粱肉を待たしめ、人に金玉を仮して以て溺子を救うの説なり。