宋名臣言行録 / 後集巻五・吕誨
治平初英宗即位多不豫任事益専始欲快意因用王疇為樞副知制誥錢公輔封還詞頭遂黜公輔為滁州團練使知制誥祖無擇亦封還詞頭又罰無擇銅三十斤而制遂行是時臺諌官言事一切不聴或盡逐臺諌不留一人京師為之語曰絶市無臺官其弊至此
新字:治平初英宗即位多不予任事益専始欲快意因用王疇為枢副知制誥銭公輔封還詞頭遂黜公輔為滁州団練使知制誥祖無択亦封還詞頭又罰無択銅三十斤而制遂行是時台諌官言事一切不聴或尽逐台諌不留一人京師為之語曰絶市無台官其弊至此
書き下し
治平の初め、英宗即位して多く豫ならず。事に任ずること益ミ專らなり。始め意を快くせんと欲す。因りて王疇を用いて樞副と爲す。知制誥錢公輔詞頭を封じ還す。遂に公輔を黜けて滁州團練使と爲す。知制誥祖無擇も亦た詞頭を封じ還す。又た無擇に銅三十斤を罰して、制遂に行わる。是の時、臺諫官の言事は一切聽かれず。或いは盡く臺諫を逐いて一人も留めず。京師之が爲に語を爲して曰く、市を絶ちて臺官無しと。其の弊此に至る。
現代語訳
治平のはじめ、英宗が即位して、たびたび病んでいた。事に当たることはますます専らになった。はじめ思いのままにしたいと望んだ。そこで王疇を用いて枢密副使とした。知制誥の銭公輔が詔書の草案の指示書きを突き返した。そこで公輔を退けて滁州団練使とした。知制誥の祖無擇もまた指示書きを突き返した。そこで無擇に銅三十斤の罰を科して、詔はついに施行された。この時、御史台と諫院の官の意見はいっさい聴かれなかった。あるいは御史台と諫院をことごとく追い出して、一人も残さなかった。都ではこれについて言葉が作られた。「市が絶えて、台官がいない」。その弊害はここまで来ていた。
解説
前の段で描かれた仕組みが、代替わりで崩れる過程です。詔書を止める手も、二度使われて二度とも潰されました。**公輔を退けて滁州団練使とした。****無擇に銅三十斤の罰を科して、詔はついに施行された。**罰の重さが違うところが妙に生々しい。そして行き着いた状態が、都の言い回しに残りました。**市が絶えて、台官がいない。**市場から物が消えるように、御史台から人が消えた、という言い方です。
この章句が説くこと
治平の初め英宗即位して多く予ならず事に任ずること益ミ専らなり知制誥銭公輔詞頭を封じ還す遂に公輔を黜く是の時台諫官の言事は一切聴かれず京師之が為に語を為して曰く市を絶ちて台官無し排除諫官
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