十八史略 / 『十八史略』唐・則天武氏・仁傑の諫言と後継者問題
武承嗣三思營求為太子仁傑從容言於曌曰太宗櫛風沐雨親冒鋒鏑以定天下傳之子孫太帝以二子托陛下今乃欲移之他族無乃非天意乎姑姪與母子孰親陛下立子則千秋萬歲後配食太廟立姪則未聞姪為天子而祔姑於廟者也曌稍悟已而又力勸之遂自房州召廬陵王還都立為皇太子以子旦為相王仁傑最見信重好面折廷爭曌常屈從稱為國老而不名
新字:武承嗣三思営求為太子仁傑従容言於曌曰太宗櫛風沐雨親冒鋒鏑以定天下伝之子孫太帝以二子托陛下今乃欲移之他族無乃非天意乎姑姪与母子孰親陛下立子則千秋万歳後配食太廟立姪則未聞姪為天子而祔姑於廟者也曌稍悟已而又力勧之遂自房州召廬陵王還都立為皇太子以子旦為相王仁傑最見信重好面折廷争曌常屈従称為国老而不名
書き下し
武承嗣・三思、営求して太子と為らんとす。仁傑、従容として太后に言いて曰く、太宗は風に櫛り雨に沐し、親ら鋒鏑を冒して以て天下を定め、之を子孫に伝えたり。大帝は二子を以て陛下に托せり。今乃ち之を他族に移さんと欲す。乃ち天意に非ざる無からんや。姑姪と母子と、孰れか親しき。陛下、子を立てば、則ち千秋万歳の後、太廟に配食せん。姪を立てれば、則ち未だ姪の天子と為りて、姑を廟に祔する者を聞かざるなり、と。太后稍く悟る。已にして又力めて之を勧む。遂に房州より廬陵王を召して都に還し、立てて皇太子と為し、子の旦を以て相王と為す。仁傑は最も信重せられ、好んで面折廷争す。太后は常に屈従し、称して国老と為し、名のらず。
現代語訳
武承嗣と武三思は、自分たちが太子になろうと画策していました。狄仁傑は落ち着いた態度で、則天武后に言いました。「太宗は、風雨に身をさらし、みずから戦場で刃を冒して天下を定め、それを子孫に伝えました。高宗は二人の子を陛下に託されました。それなのに今、天下を他の家に移そうとなさるのは、天の意思に背くことになりはしないでしょうか。叔母と甥、母と子では、どちらが親しいでしょうか。陛下が子を立てれば、千年万年の後も、太廟に祀られます。甥を立てた場合、甥が天子になって、叔母を宗廟に合祀したという例は、聞いたことがありません」。武后は次第に悟りました。やがて仁傑がなおも力を入れて勧めたので、ついに房州から廬陵王を呼び戻して都に帰らせ、皇太子に立て、子の旦を相王としました。仁傑は最も信任され、好んで面と向かって諫め、朝廷で争いましたが、武后はいつも従い、国老と呼んで、名を呼びませんでした。
解説

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『智囊』辯才・狄仁杰武承嗣・三思、太子たらんことを営求す。狄仁杰、従容として太后に言いて曰く、「姑姪と母子と孰れか親しき。陛下、子を立てば、則ち千秋万歳の後、太廟に配食せん。若し姪を立てば、則ち未だ姪の天子と為りて、姑を廟に祔する者を聞かざるなり」。太后乃ち寤る。〔述評〕議論十分に醒快なる処に到れば、従わざらんと欲すと雖も得べからず。廬陵の反正は、鸚鵡の翼を折ると雙陸の勝たざるとの夢に因ると雖も、実は姑姪・子母の説、以て之を動かす有り。凡そ生前を恋う者は、未だ死後を計らざる者有らず。時に王方慶、相の位に居り、其の子を以て眉州の司士参軍と為す。天后問いて曰く、「君、相の位に在り、子何ぞ遠きや」。対えて曰く、「廬陵は是れ陛下の愛子なるに、今猶お遠きに在り。臣の子、安くんぞ敢えて相い近づかん」。此れも亦た善く諷すと謂うべし。然れども慈主は情を以て動かすべく、明主は当に理を以て格すべし。則天は明にして慈ならず。故に梁公は昌宗を辱めて怒らず、張柬之を進めて疑わず。皆其の明に因りて之を用う。
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『智囊』剖疑・張說・李泌当時、言う者は猶お云う、『願わくは陛下、慈父たるを失わず、太子をして天年を終うるを得しめよ』と。太宗、之に従い、並びに魏王泰を廃す。陛下、既に粛宗の性急なるを知り、建寧を以て冤と為す。臣、慶幸に勝えず。願わくは陛下、覆車の失を戒め、従容として三日、其の端緒を究めて之を思わば、陛下は必ず釈然として太子の他無きを知らん。若し果たして其の跡有らば、当に大臣の義理を知る者二三人を召し、臣と実を鞫すべし。陛下、貞観の法の如く之を行い、舒王を廃して皇孫を立てなば、則ち百代の後、天下を有つ者は、猶お陛下の子孫なり。開元の時に至りては、武恵妃、太子瑛の兄弟を譖して之を殺し、海内冤憤す。此れ乃ち百代の当に戒むべき所、又た法とすべけんや。且つ陛下、昔嘗て太子をして臣を蓬莱池に見えしむ。其の容表を観るに、蜂目豺声、商臣の相有るに非ざるなり。正に柔仁に失せんことを恐るるのみ。又た太子、貞元より以来、嘗て少陽院に居り、寝殿の側に在りて、未だ嘗て外人に接し外事に預からず。何ぞ自ら異謀有らんや。彼の譖者は巧詐百端にして、晋の愍懐の如く手書有り、太子瑛の如く甲を裹むと雖も、猶お未だ信ずべからず。況んや但だ妻の母に罪有るを以て累と為すをや。幸いに陛下の臣に語るに頼り、臣は敢えて宗族を以て太子の必ず謀を知らざるを保す。
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貞観政要・尊敬師傅貞観十八年、高宗初めて立ちて皇太子と為る。尚お未だ賢を尊び道を重んぜず。太宗又た嘗て太子をして寝殿の側に居らしめ、絶えて東宮に往かしめず。散騎常侍劉洎、書を上りて曰く、
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