神皇正統記 / 巻六 第九十五代 後醍醐天皇
源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨を給て諸国の兵をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族おほくなりしによりて、此制符はくだされき。はたして、今までの乱世の基なれば、云ふかひなきことになりにけり。此比のことわざには、一たび軍にかけあひ、或は家子郎従節にしぬるたぐひもあれば、「わが功におきては日本国を給、もしは半国を給てもたるべからず。」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端ともなり、又朝威のかろ〴〵しさもおしはからるゝものなり。「言語は君子の枢機なり。」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。
書き下し
源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨を給て諸国の兵をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族おほくなりしによりて、此制符はくだされき。はたして、今までの乱世の基なれば、云ふかひなきことになりにけり。此比のことわざには、一たび軍にかけあひ、或は家子郎従節にしぬるたぐひもあれば、「わが功におきては日本国を給、もしは半国を給てもたるべからず。」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端ともなり、又朝威のかろがろしさもおしはからるゝものなり。「言語は君子の枢機なり。」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。
現代語訳
源平は長く武をもって仕えてきたが、事があるときは宣旨を賜って諸国の兵を召し連れていた。ところが近代になって、そのまま源平に肩入れする者たちが多くなったので、この制符が下されたのである。はたして今までの乱世の基となったので、言ってもかいのないことになってしまった。この頃の口癖には、一度戦に駆け合い、あるいは家の子・郎従が節に殉じて死んだ類があると、「わが功においては、日本国を賜っても、もしくは半国を賜っても足りない」などと申すようだ。まことにそこまで思っているわけではあるまいが、やがてこれが乱れの端緒ともなり、また朝廷の威光の軽々しさも推し量られるものである。「言語は君子の枢機である」と言う。かりそめにも君をないがしろにし、人に驕ることがあってはならない。先に記したように、堅い氷は霜を踏むことから至るのが習いなので、乱臣賊子という者は、その初めに心と言葉を慎まないところから出てくるのである。世の中が衰えるというのは、日月の光が変わるのでもなく、草木の色が改まるのでもあるまい。人の心が悪くなっていくことを末世と言うのであろう。
解説
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