神皇正統記 / 巻五 第七十八代 二条院
第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛[の]大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。
書き下し
第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛の大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。
現代語訳
第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河天皇の皇太子である。御母は贈皇太后藤原懿子で、贈太政大臣経実の娘である。戊寅の年(1158年)に即位し、己卯に改元した。年号を平治という。右衛門督藤原信頼という人がいた。上皇がたいそう寵愛されて、天下のことまで任されるほどになったので、驕りの心がきざして近衛の大将を望み申したのを、通憲法師が諫め申して沙汰やみになった。その時、源義朝朝臣が清盛朝臣に抑えられて恨みを抱いていたのを誘い込んで、反逆を企てた。保元の乱では義朝の功が高かったのだが、清盛は通憲法師の縁者になって、格別に重く用いられていた。信頼は通憲法師と清盛らを滅ぼして、世を思うままにしようと謀った。清盛が熊野に参詣した隙をうかがって、まず上皇のおられる三条殿という所を焼いて大内裏にお移し申し、主上をも一方に押し込め申した。通憲法師は逃れがたいと思ったのだろうか、自ら命を絶った。その子どもたちはすぐに国々へ流された。通憲も学才があり、心も賢かったけれども、自分の非を知り、まだ芽生えない禍を防ぐだけの知恵が欠けていたのであろうか。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。
-
『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき天下の諸国は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院武士どもゝ多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。
-
『神皇正統記』巻五 第七十九代 六条院第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましましき。
-
『神皇正統記』巻五 第八十代 高倉院第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女徳子入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやうやう所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。
-
『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る