神皇正統記 / 巻五 第七十八代 二条院
其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。
書き下し
其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。
現代語訳
そのころ名臣も多くいたであろうに、また通憲法師がもっぱら政務を取り計らっていたのに、どうして諫め申さなかったのか。「大義親を滅す」という言葉があるのは、石碏という人がその子を殺したことである。父として不忠の子を殺すのは道理である。父が不忠であっても、子として殺せという道理はない。孟子がたとえを取って言っているのに、「舜が天子であった時、その父の瞽叟が人を殺すことがあって、時の司法長官であった皐陶が捕らえたならば、舜はどうなさるだろうかと問うたのに対し、舜は位を捨てて、父を背負って逃げ去るだろう」とある。大賢の教えなので、忠と孝の道がはっきり表れていて味わい深い。保元・平治より以来、天下が乱れて、武の用が盛んになり、王位は軽くなってしまった。いまだに太平の世に返らないのは、名分と行いが破れはじめたことによるものと見える。こうしてしばらく静まっていたが、主上と上皇の御仲が悪くなり、主上の外戚の叔父である大納言経宗と、御乳母の子である別当惟方らが上皇の御意に背いたので、上皇は清盛朝臣に命じて召し捕らえられ、配所に送られた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛の大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院武士どもゝ多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき天下の諸国は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。 先祖経基はちかき皇孫なりしかど、承平の乱に征東将軍忠文朝臣が副将として彼が節度をうく。其より武勇の家となる。其子満仲より頼信、頼義、義家相続で朝家のかためとしてひさしく召仕る。上にも朝威ましまし、下にも其分にすぎずして、家を全し侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅にふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤をわきまへ、得失をかむがへて、身を立、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきことゝおもひ、為義、義朝が逆心をよみして、亡たるゆゑをしらず。
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『神皇正統記』巻六 第九十五代 後醍醐天皇天文にかたどり、地理にのとりておのおのつかさどる方あれば、其才なくては任用せらるべからざることなり。「名与器は人にかさず。」とも云、「天の工に人其代。」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙とし、臣のみだりにうくるを尸禄とす。謬挙と尸禄とは国家のやぶるゝ階、王業の久からざる基なりとぞ。中古と成て、平将門を追討の賞にて、藤原秀郷正四位下に叙し、武蔵・下野両国の守を兼す。平貞盛正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任奥州をみだりしを、源頼義朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋の日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼等其功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古の法にはかはれり。保元の賞には、義朝左馬頭に転じ、清盛太宰大弐に任ず。此外受領・検非違使になれるもあり。此時やすでにみだりがはしき始となりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盗、太政大臣にあがり、子ども大臣大将に成しうへはいふにたらぬ事にや。
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