神皇正統記 / 巻五 第七十七代 後白河院
武士どもゝ多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみまし〳〵しを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。
書き下し
武士どもゝ多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。
現代語訳
武士たちも多く誅殺された。その中に源為義と申したのは義朝の父である。どういうお考えがあったのか、上皇の御方について、義朝とは別の側になった。ほかの子どもたちは父に従ったのである。戦に敗れて為義も出家していたのを、義朝が預かって斬ったことは、前例のないことである。嵯峨天皇の御代に奈良坂の戦い(薬子の変)があって後は、都で戦乱ということはなかったのに、これから乱れはじめたのも、時運が下った姿と思われる。この君(後白河)の御乳母の夫で少納言通憲法師(信西)と申した人は、藤原氏の儒者の家の出である。広い学才と博い見識の人であった。けれども時に恵まれず出家していたのが、この御世にたいへん重く用いられて、内々には天下の事をそっくり取り計らい申した。大内裏は白河院の御代から長く荒れ果てて、天皇は里内裏にばかりおられたのを、通憲は計略をめぐらして、国の費えもなく造り立て、絶えていた朝廷の儀式や公事を申し上げて復興した。すべて京の道路なども掃き清めて、昔に返ったような姿であった。天下を治められたこと三年。皇太子に位を譲り、例のとおり尊号を受けて、院中で天下を治められたこと三十余年であった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛の大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
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『神皇正統記』巻五 第七十八代 二条院其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。
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