神皇正統記 / 巻三 第二十四代 顕宗天皇
第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇[の]孫也。御母荑媛、蟻の臣女也。白髪天皇養て子とし給ふ。御兄仁賢先位に即給べかりしを、相共に譲まし〳〵しかば、同母の御姉飯豊の尊しばらく位に居給き。されどやがて顕宗定りまし〳〵しによりて、飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑の年即位。大和の近明日香八釣の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おまし〳〵き。
書き下し
第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇の孫也。御母荑媛、蟻の臣女也。白髪天皇養て子とし給ふ。御兄仁賢先位に即給べかりしを、相共に譲ましまししかば、同母の御姉飯豊の尊しばらく位に居給き。されどやがて顕宗定りましまししによりて、飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑の年即位。大和の近明日香八釣の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おましましき。
現代語訳
第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽皇子の第三の子で、履中天皇の孫である。母は荑媛(はえひめ)で、蟻臣(ありのおみ)の娘である。白髪天皇(清寧天皇)が養って子とされた。兄の仁賢天皇が先に位に即かれるはずであったが、互いに譲り合われたので、同じ母の姉の飯豊尊(いいとよのみこと)がしばらく位におられた。しかしまもなく顕宗天皇に定まったので、飯豊天皇は皇位の代数には数え申し上げないのである。乙丑の年に即位された。大和の近明日香八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)におられた。天下を治められたのは三年で、四十八歳であられた。
解説
清寧天皇が養った市辺押羽皇子の遺児のうち、弟の顕宗が先に即位する。兄弟が譲り合う間、姉の飯豊尊が一時位にあったが、親房は「日嗣にはかぞへたてまつらぬ」と明言する。位にいたことは記すが、代数には入れない。何を皇位と数えるかの基準を、親房は一人ずつ定めながら書いている。神功皇后を摂政として天皇に数えないのと同じ扱いで、のちに推古天皇の条で、正式に即位した女帝との違いがはっきり語られる。兄弟が互いに譲るという話は仁徳と菟道稚皇子の条にも出てきたが、親房はこうした謙譲を好んで記す。争って奪った雄略の例と、譲り合った兄弟の例が隣り合っているのも偶然ではないだろう。暫定で立った人をどう扱うか、記録の上でどう位置づけるかは、組織の歴史を書くときにも避けて通れない問いである。
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