神皇正統記 / 巻二 第十六代 応神天皇
とあり。されば二所宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方天地の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「黒心なくして丹心をもて、清潔斎慎。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事たがふことなくして、太神につかうまつれ。元々本々故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易に、「霜を履堅氷に至。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり。君を弑し父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」と云り。毫釐も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕も親をおろそかにするかたちあるものは、果して賊子となる。
書き下し
とあり。されば二所宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方天地の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「黒心なくして丹心をもて、清潔斎慎。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事たがふことなくして、太神につかうまつれ。元々本々故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易に、「霜を履堅氷に至。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり。君を弑し父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」と云り。毫釐も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕も親をおろそかにするかたちあるものは、果して賊子となる。
現代語訳
とある。だから二所の宗廟の御心を知ろうと思うならば、ただ正直を先とすべきである。おおよそ天地の間にあるあらゆる人は、陰陽の気を受けている。不正であっては立つことができない。とりわけこの国は神国であるから、神道に背いては一日も日月を頂くことはできないはずのいわれである。倭姫命が人に教えられたことには、「黒い心なく赤き心をもって、清らかに潔く斎み慎め。左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし右を右とし、左に返り右にめぐることも万事違えることなく、大神にお仕えせよ。元を元とし本を本とするゆえである」という。まことに、君に仕え、神に仕え、国を治め、人を教えることも、このようであるべきだと思われる。少しのことでも心に緩めるところがあると、大きく誤る本となる。周易に「霜を履んで堅氷至る」とあることを、孔子が解釈しておっしゃるには、「善を積む家には余慶があり、不善を積む家には余殃がある。君を弑し父を弑することは、一朝一夕の故ではない」と言った。わずかでも君をおろそかにする心が芽生える者は、必ず乱臣となる。ちりほどでも親をおろそかにする形がある者は、はたして賊子となる。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇此故に古の聖人、「道は須臾もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。但其の末を学びて源を明めざれば、ことにのぞみて覚えざる過あり。其源と云は、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に留るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報影響の如し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々に対すること、鏡の物を照すが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自ら苟むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之、君も臣も神をさること遠からず。常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし、邪なからんことを思給べし。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起は、さきにもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段以て斎鏡と為すべしと。此の天照太神は、神璽の御徳、宝鏡宝剣の御徳見はれたまふ御神なり。中庸に所謂、誠よりして明らかなる、之を性と謂ふ者にして、天道なり。天忍穂耳尊は、中庸に所謂、明らかなるよりして誠なる、之を教と謂ふ者にして、教に由りて神璽の御徳に入り給ふ所なり。神璽の御徳に至り給へば、宝鏡宝剣の御徳は、其の中に籠り給へり。此の宝鏡を視ますこと、吾を視るごとくすべしとのたまへば、宝鏡を直に天照太神宮とも拝むべし。床を同じくし殿を共にすとのたまふは、宝鏡の御徳を離れ給はずば、代々の君、天下を平らかに治め給ふべしとの、御宝勅なりと拝すべし。此の理を知らずして事を行はば、君としては国を亡ぼし、臣としては家を乱し、政道正しからずして、無益の物を殺し、人欲肆にして、無道を行ひ、五倫五常の道に背き、出家は五戒を破り、
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段又吾もろもろの蒼人草いつはり謀りて、たとへ善と思ふ共、必ず天の尊の怒りを受けて、根の国におもむかん。正しき心を持ちて正しく悪しき共、必ず天の神の恵みあらんと、皇太神宮の宝勅なり。神御納受無きことに、氏子を苦しめ金銀を出させなば、神の御心に背くにあらずや。神主と成る者は、御神託に因りて、神の御心を知るべし。何事も御心を知るの徳による。譬へば禹王の有苗を征せしも、師を班し、徳を敷くには如かざりき。物の成就致しがたきは、身の不徳なりと我を顧みば、恥しきことも多かるべし。心を明らかにする為に神に仕へ、反つて心昧くば、神罰を受くること速かならん。扨て仏の道は五戒を有つに依りて、仏の弟子にあらずや。其れに寺の修覆と云へば、内福の寺方にても、世間に習ひて、
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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