都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
以爲齋鏡ト、此天照太神ハ、神璽御德寶鏡寶劍御德見御神也、中庸ニ所謂、自誠明謂之性者ニシテ、天道ナリ、天忍穗耳尊ハ、中庸ニ、所謂自明誠謂之敎者ニシテ、由敎神璽御德ニ入玉フ所ナリ、神璽ノ御德ニ至リ玉ヘバ、寶鏡寶劍ノ御德ハ、其中ニ籠玉ヘリ、此寶鏡ヲ視マスコト、吾ヲ視ゴトクスベシトノ玉ヘバ、寶鏡ヲ直ニ天照太神宮トモ拜ベシ、床ヲ同殿ヲ共ニストノ玉フハ、寶鏡ノ御德ヲ離レ玉ハズバ、代々ノ君、天下ヲ平ニ治メ玉フベシトノ、御寶敕ナリト拜スベシ、此理ヲ不知シテ事ヲ行ハヾ、君トシテハ國ヲ亡シ、臣トシテハ家ヲ亂シ、政道正シカラズシテ、無益ノ物ヲ殺シ、人欲肆ニシテ、無道ヲ行ヒ、五倫五常ノ道ニ背キ、出家ハ五戒ヲ破リ、
新字:以為斎鏡ト、此天照太神ハ、神璽御徳宝鏡宝剣御徳見御神也、中庸ニ所謂、自誠明謂之性者ニシテ、天道ナリ、天忍穂耳尊ハ、中庸ニ、所謂自明誠謂之教者ニシテ、由教神璽御徳ニ入玉フ所ナリ、神璽ノ御徳ニ至リ玉ヘバ、宝鏡宝剣ノ御徳ハ、其中ニ籠玉ヘリ、此宝鏡ヲ視マスコト、吾ヲ視ゴトクスベシトノ玉ヘバ、宝鏡ヲ直ニ天照太神宮トモ拝ベシ、床ヲ同殿ヲ共ニストノ玉フハ、宝鏡ノ御徳ヲ離レ玉ハズバ、代々ノ君、天下ヲ平ニ治メ玉フベシトノ、御宝勅ナリト拝スベシ、此理ヲ不知シテ事ヲ行ハヾ、君トシテハ国ヲ亡シ、臣トシテハ家ヲ乱シ、政道正シカラズシテ、無益ノ物ヲ殺シ、人欲肆ニシテ、無道ヲ行ヒ、五倫五常ノ道ニ背キ、出家ハ五戒ヲ破リ、
書き下し
以て斎鏡と為すべしと。此の天照太神は、神璽の御徳、宝鏡宝剣の御徳見はれたまふ御神なり。中庸に所謂、誠よりして明らかなる、之を性と謂ふ者にして、天道なり。天忍穂耳尊は、中庸に所謂、明らかなるよりして誠なる、之を教と謂ふ者にして、教に由りて神璽の御徳に入り給ふ所なり。神璽の御徳に至り給へば、宝鏡宝剣の御徳は、其の中に籠り給へり。此の宝鏡を視ますこと、吾を視るごとくすべしとのたまへば、宝鏡を直に天照太神宮とも拝むべし。床を同じくし殿を共にすとのたまふは、宝鏡の御徳を離れ給はずば、代々の君、天下を平らかに治め給ふべしとの、御宝勅なりと拝すべし。此の理を知らずして事を行はば、君としては国を亡ぼし、臣としては家を乱し、政道正しからずして、無益の物を殺し、人欲肆にして、無道を行ひ、五倫五常の道に背き、出家は五戒を破り、
現代語訳
斎い清める鏡としなさい」とあります。この天照大神は、神璽・宝鏡・宝剣の御徳が現れた御神です。中庸にいう「誠から明らかになる、これを性という」者であり、天の道です。天忍穂耳尊は、中庸にいう「明らかになることから誠に至る、これを教という」者であり、教えによって神璽の御徳に入られたところです。神璽の御徳に至られれば、宝鏡・宝剣の御徳はその中にこもっています。この宝鏡を私を見るように見よと言われたのですから、宝鏡をそのまま天照皇大神宮とも拝むべきです。床を同じくし御殿を共にせよと言われたのは、宝鏡の御徳を離れなければ、代々の君が天下を平らかに治められるという宝勅だと拝すべきです。この理を知らずに事を行えば、君としては国を滅ぼし、臣としては家を乱し、政治が正しくなく、無益に物を殺し、欲をほしいままにして無道を行い、五倫五常の道に背き、出家は五戒を破り、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
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『呻吟語』内篇・談道・夫れ焉んぞ倚る所有らんや「夫れ焉んぞ倚る所有らんや」、此れ至誠の胸次なり。空空洞洞として、一も著くる所無く、一も有する所無し。只だ是れ倚著せざるのみ。才かに一分倚れば、便ち是れ一分の偏なり。才かに一釐著けば、便ち是れ一釐の礙なり。
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伝習録・答聶文蔚 二蓋し良知は只だ是れ一個の天理の自然に明覚し発見する処なり。只だ是れ一箇の真誠惻怛、便ち是れ他の本体なり。故に此の良知の真誠惻怛を致して以て親に事うれば便ち是れ孝なり。此の良知の真誠惻怛を致して以て兄に従えば便ち是れ弟なり。此の良知の真誠惻怛を致して以て君に事うれば便ち是れ忠なり。只だ是れ一個の良知、一個の真誠惻怛なり。若し是れ兄に従うの良知、其の真誠惻怛を致す能わずんば、即ち是れ親に事うるの良知、其の真誠惻怛を致す能わざるなり。君に事うるの良知、其の真誠惻怛を致す能わずんば、即ち是れ兄に従うの真知、其の真誠惻怛を致す能わざるなり。故に事君の良知を致し得れば、便ち是れ従兄の良知を致し却るなり。従兄の良知を致し得れば、便ち是れ事親の良知を致し却るなり。事君の良知を致す能わずして、却って須らく又た事親の良知の上より去きて擴充し将ち来たるべきに非ず。此くの如くんば又た是れ本原を脱却して、支節の上に着きて求むるなり。良知は只だ是れ一個なり。他の発見流行する処に随いて、当下、具足す。更に去来無く、仮借を須いず。然れども其の発見流行する処は、却って自ら軽重厚薄有りて、毫髪も増減を容れざる者なり。所謂る「天然自ら有るの中」なり。軽重厚薄、毫髪も増減を容れずと雖も、而も厚も又た只だ是れ一個なり。只だ是れ一個なりと雖も、而も其の間の軽重厚薄は、又た毫髪も増減を容れず。若し増減を得べく、若し仮借を須いば、即ち已に其の真誠惻怛の本体に非ざるなり。此れ良知の妙用、方体無く、窮尽無く、大を語れば天下も能く載する莫く、小を語れば天下も能く破る莫き所以なる者なり。
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言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
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荀子・不苟篇君子の心を養うは誠より善きは莫し。誠を致さば則ち它事無し。唯だ仁のみ之れ守と為し、唯だ義のみ之れ行と為す。心を誠にして仁を守れば則ち形れ、形るれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行なえば則ち理あり、理あれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち能く変ず。変化代わる代わる興る、之を天徳と謂う。天は言わずして人は高きを推し、地は言わずして人は厚きを推し、四時は言わずして百姓は期す。夫れ此れ常有るは、其の誠を至せる者を以てなり。君子の至徳は、嘿然として喩り、未だ施さずして親しみ、怒らずして威あり。夫れ此れ命に順うは、其の独りを慎む者を以てなり。善の道を為すや、誠ならざれば則ち独ならず、独ならざれば則ち形れず、形れざれば則ち心に作り、色に見れ、言に出づと雖も、民は猶お未だ従わざるが若し。従うと雖も必ず疑う。天地は大と為すも、誠ならざれば則ち万物を化する能わず。聖人は知と為すも、誠ならざれば則ち万民を化する能わず。父子は親と為すも、誠ならざれば則ち疏し。君上は尊と為すも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は、君子の守る所にして、政事の本なり。唯だ居る所にして其の類を以て至る。之を操れば則ち之を得、之を舎つれば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち軽し、軽ければ則ち独行す。独行して舎てざれば、則ち済る。済りて材尽き、長く遷りて其の初めに反らざれば、則ち化す。
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論語・八佾篇祭ること在るが如く。神を祭ること神在るが如し。子曰く、『吾、祭に与らざれば、祭らざるが如し。』