神皇正統記 / 巻一 鏡を本とす
中にも鏡を本とし、宗廟の正体とあふがれ給。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正く御影をうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。天にある物、日月よりあきらかなるはなし。仍文字を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日の霊にましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕につきてたのみあり。君も臣も神明の光胤をうけ、或はまさしく勅をうけし神達の苗裔也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理をさとり、其道にたがはずは、内外典の学問もこゝにきはまるべきにこそ。
書き下し
中にも鏡を本とし、宗廟の正体とあふがれ給。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正く御影をうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。天にある物、日月よりあきらかなるはなし。仍文字を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日の霊にましませば、明徳をもて照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕につきてたのみあり。君も臣も神明の光胤をうけ、或はまさしく勅をうけし神達の苗裔也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理をさとり、其道にたがはずは、内外典の学問もこゝにきはまるべきにこそ。
現代語訳
なかでも鏡を根本とし、宗廟のご神体として仰がれている。鏡は明るさをその形としている。心の本性が明らかであれば、慈悲も決断もその中に含まれる。またまさしく御影を映されたのだから、深い御心をとどめられたのだろう。天にあるもので日月より明るいものはない。だから文字を作るときも「日と月を合わせて明とする」と言う。わが神は大日の霊にましますので、その明らかな徳で照らされることは、陰陽の理をもってしても測りがたい。目に見える面でも見えない面でも頼みがある。君も臣も神明の血を受け、あるいはまさしく神勅を受けた神々の子孫である。誰がこれを仰がずにいられよう。この理を悟り、その道に外れなければ、仏典・儒書の学問もここに極まるだろう。
解説
前章の三徳のうち、鏡=明を根本に置き直す。理由が明快だ。「心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり」——心が明るく澄んでいれば、慈悲も決断もその中から自然に出てくる。三つを別々に鍛えるのではなく、一つが立てば残りは従うという構造である。「明」という字が日と月から成るという説明を挟み、明るさを最上位に置く。後半の「此理をさとり、其道にたがはずは、内外典の学問もこゝにきはまるべきにこそ」も見逃せない。仏典も儒書も、この一点に至るための道であって、学問の量そのものが目的ではないと言っている。多くを学ぶことと、根本が澄むことは別だ、という順序である。
この章句が説くこと
鏡明徳心性内外典の学問