自警録 / 第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(2)
こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。
書き下し
こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。
現代語訳
こういう例を挙げれば、誰についても、どんなことについても、必ずおびただしくあります。私もこのような例をたくさん挙げたいと思います。なぜなら、読者の中には甲か乙か丙かに属する人がいて、自分では、自分は甲に属する、自分は乙に属すると考える人もいるでしょう。ちょっと茶を一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥ずかしげもなく出せたものだ、この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちだとそしる人もあれば、私たちがちょっと来るたびに、五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」の趣旨をよく奉じる、感心な乃木式の人だとほめる人もあります。 また昔、中国の妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食べ、味があまりに美味しかったので、独りで食べるのに忍びず、食べ残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深さを賞され、寵愛はいよいよ厚くなりました。ところがその後、妃の寵愛が衰えたとき、かつて食べ残しを捧げた無礼の件で罰せられた、といいます。寸分違わない同一の事実でも、見方によってはほめることもでき、そしることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできます。同じことも、見聞きする人によって、天地ほどの差を生じます。
解説

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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・読者中にも必ずかかる経験あらん仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」
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