自警録 / 第十九章 言葉の心・同じ事が弁解にもなり有罪にもなる
僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は日ならずして無罪を宣告せられたが、逮捕の理由は彼がある嫌疑者に数千の金を与えたというにあって、裁判官が、 「なにゆえに貴様はかかる大金を彼に与えたるか」 の尋問に対し、彼は、 「彼が嫌疑がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄の身となるも悔ゆることがない、ついては若干の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片の義侠、これを否むに忍びず、彼のために出金した」 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者なりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告げた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴にだも値せずと絶叫したと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを叙するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。
書き下し
僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は日ならずして無罪を宣告せられたが、逮捕の理由は彼がある嫌疑者に数千の金を与えたというにあって、裁判官が、 「なにゆえに貴様はかかる大金を彼に与えたるか」 の尋問に対し、彼は、 「彼が嫌疑がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄の身となるも悔ゆることがない、ついては若干の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片の義侠、これを否むに忍びず、彼のために出金した」 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者なりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告げた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴にだも値せずと絶叫したと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを叙するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。
現代語訳
私の知人に、思いがけない災難にあって、裁判所に呼び出された人がいます。彼は日を経ずして無罪を宣告されましたが、逮捕の理由は、彼がある嫌疑者に数千円の金を与えたということでした。裁判官が、 「なぜおまえは、このような大金を彼に与えたのか」 と尋問したのに対し、彼は、 「彼が嫌疑のかかるようなことをするにつけ、いつどのような運命に陥るかもしれない。万一そうなると、自分の心残りは、一人の老母の身の上である。老母が安全に暮らせるという心配がなければ、私は牢に入れられても悔いはない。ついては、いくらかの金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、私は一片の義侠心から、これを断るに忍びず、彼のために金を出した」 と答えました。しかし裁判官は、この事実をもって彼を共謀者とみなしました。つまり私の友人は事実のままを答えたのに、裁判官はそれをそのまま受け取らず、気の毒だから金を恵むといっても、一円や二円の額なら、その申し開きも受け取れるが、数千円の金を出すのに、いま述べたような弁明は取り上げがたい、と告げたのです。友人はこれを聞いて、かっとなり、わが胸中に湧き出る同情の海に比べれば、二千、三千の金はその一滴にも値しないと絶叫したと聞きました。金を与えたという事実は同一ですが、これを述べるのに、裁判官が用いた言葉と友人が用いた言葉は非常に違っています。この差が生じる理由は、まったく心の置きどころが異なるからです。
解説

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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(2)こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
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自警録・第十九章 言葉の心・かくの如き曲解も起こるまた僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・表裏の善悪を判断する標準(2)しかしその当人が果たして欺く意志であるかどうかは容易に判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外の驚きに打たれて、その人が故意に我を欺けりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、欺かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度で、彼はことさらに隠しもせねば包んでもいなかったが、吾人がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴することもなく、また他人にそう思わせようとも力めず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優る裏をつけているだろうと推量し、ことさら尋ねもせずに独り合点している間に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺いた、表裏のはなはだしい奴だと詈る者を多く見る。先方が欺いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一口にいえば悪い意味における裏面の有無を判断する者は当事者一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。 近ごろ世間に海軍とやら本願寺とやら何々党とやらに関して、種々面白からざる表裏ばなしを聞くが、罪は悪むべきも、その関係者の人については、慈悲の心をもって当たりたい。いわんや吾人は平素交わる人々について、図らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表と裏と、外と内と、皮と肉との別あるを心得ておきたい。
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自警録・第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(2)「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭にその言うところの意味がわからなかった」 といい、進んで滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋かつ小であって、先方を困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某を重大視し、某は彼に対して無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。
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自警録・第十九章 言葉の心・心から湧き出たものが真の言葉用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。