自警録 / 第十三章 広く世を渡る心がけ・測る物体と測る標準とが違う
わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに嗜好はなるたけ人々により別なるが面白けれども、善悪の標準は一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的物差しでない。しかるに好きなものは善い、嫌いなものは悪いというように、愛憎をもって曲直を決することは、ちょうど物の軽重を計るに差金を用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にして異るので、この二者を混同するとつまらぬことに争いが起こり、互いに不愉快の念を生ずるにいたる。ことに人に対して愛憎の念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを慎まねばならぬ。 僕のごときも今日まで幾度となくこの過ちを繰り返し来ったもので、今にしてこれを顧ると済まぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い做した。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始終不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを悪ざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、矯むべき人情、怪しからぬ人情である。人は宜しくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超然たる人情に達せねばなるまい。 甲が乙を評するにいろいろの悪しき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の過てることを一々指摘し説明しても甲の偏見はなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が客観的であるものならば矯正される望みもあるが、多くは主観的で批評する人が始めより曲解する精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。 たとえば某の衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば幽霊のようだと非難する。黄色にすれば坊主に似たりとか、紺色にすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が矯められぬ間は非難が尽きないものである。
書き下し
わが輩はつねにこう信ずる。この世の中を渡るに嗜好はなるたけ人々により別なるが面白けれども、善悪の標準は一様でなくてはならぬと。この一様なる善悪の標準をもって好き嫌いを測るべきものでない。好き嫌いを測るものは道徳的物差しでない。しかるに好きなものは善い、嫌いなものは悪いというように、愛憎をもって曲直を決することは、ちょうど物の軽重を計るに差金を用うるがごとくである。長いから重いというものでなく、また短いから軽いものでもない。測る道具と測る品物が往々にして異るので、この二者を混同するとつまらぬことに争いが起こり、互いに不愉快の念を生ずるにいたる。ことに人に対して愛憎の念が起こる時は、いっそう注意してその人の性質の善悪や人格の高下等を批評することを慎まねばならぬ。 僕のごときも今日まで幾度となくこの過ちを繰り返し来ったもので、今にしてこれを顧ると済まぬことをしたと思うことがたびたびある。ちょっと始めて面会した人がなんだか虫が好かぬと思うと、すぐに悪人のごとく思い做した。しかしてそう思えばその人のすること為すことが、一部始終不正のように見ゆる。また自分はさほど悪く思わなかった人にして、自分のことを悪ざまに非難したことを聞くと、その瞬間よりその人が善くなく思われたりするものである。これは人情だと思えばそれきりであるが、人情には違いなきも、矯むべき人情、怪しからぬ人情である。人は宜しくかくのごとき人情に甘んずるより、いっそう超然たる人情に達せねばなるまい。 甲が乙を評するにいろいろの悪しき点を述ぶるのを聞くとき、その批評の過てることを一々指摘し説明しても甲の偏見はなかなかになおるものでない。なにゆえかといえば、批評が客観的であるものならば矯正される望みもあるが、多くは主観的で批評する人が始めより曲解する精神でかかるのであるゆえ、どれほど反対の証拠を挙げてもなかなか心機一転しない。 たとえば某の衣服はよくないという。もしその悪い点が果たして衣服にありとすれば、衣服を代えればその非難はただちに消ゆるはずである。しかるに衣服を代えると、こんどはまた代えた新しき衣服を非難する。赤は派手すぎると悪くいう。白くすれば幽霊のようだと非難する。黄色にすれば坊主に似たりとか、紺色にすれば職工みたいだと言い、何を着ても批評する人の心が矯められぬ間は非難が尽きないものである。
現代語訳
私はいつもこう信じています。この世を渡るうえで、嗜好はなるべく人によって別々であるほうがおもしろいけれども、善悪の基準は一様でなければならない、と。この一様な善悪の基準で、好き嫌いをはかるべきではありません。好き嫌いをはかるものは、道徳の物差しではありません。ところが、好きなものは善い、嫌いなものは悪いというように、愛憎で曲直を決めることは、ちょうど物の軽重をはかるのに物差しを使うようなものです。長いから重いというのでなく、短いから軽いのでもありません。はかる道具とはかる品物が往々にして違っているのに、この二つを混同すると、つまらないことで争いが起こり、互いに不愉快な思いを生じるにいたります。とくに人に対して愛憎の念が起こるときは、いっそう注意して、その人の性質の善悪や人格の高下などを批評することを慎まなければなりません。 私も今日まで何度もこの過ちを繰り返してきて、今になって顧みると、すまないことをしたと思うことがたびたびあります。ちょっと初対面の人が、なんだか虫が好かないと思うと、すぐに悪人のように思い込みました。そう思えば、その人のすること為すことが、すべて不正に見えるのです。また、自分はそれほど悪く思わなかった人が、自分のことを悪く非難したと聞くと、その瞬間からその人が善くないように思われたりします。これは人情だと思えばそれまでですが、人情には違いなくても、矯めるべき人情、けしからぬ人情です。人はこうした人情に甘んじるよりも、いっそう超然とした人情に達しなければなりません。 甲が乙を評して、いろいろ悪い点を述べるのを聞くとき、その批評の誤りを一つひとつ指摘して説明しても、甲の偏見はなかなか直りません。なぜかといえば、批評が客観的なものなら矯正される望みもありますが、多くは主観的で、批評する人がはじめから曲解するつもりでかかっているため、どれほど反対の証拠を挙げても、なかなか心機一転しないのです。 たとえば、ある人の衣服はよくないと言います。もしその悪い点が衣服にあるのなら、衣服を替えれば、その非難はすぐに消えるはずです。ところが衣服を替えると、今度は替えた新しい衣服を非難します。赤は派手すぎると悪く言い、白くすれば幽霊のようだと非難する。黄色にすれば坊主に似ているとか、紺色にすれば職工みたいだとか言い、何を着ても、批評する人の心が矯められない間は、非難は尽きないものです。
解説

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自警録・第十三章 広く世を渡る心がけ・好き嫌いと善悪とは違う子供が事柄について判断を下すを見るに、事の曲直、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌いという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果でありますか、これが私の嗜みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮斟酌する言葉に過ぎぬのである。 「何の因果で」とか、「前世の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己れの嫌うものこそ善である、またその順序を顛倒して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用と事物の客観的価値と一致しないゆえである。この傾向は決して独り婦人子供のみに限らない。大人にもあり、しかも学者または識者にもあることである。自然といえばそれだけで済むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己れをも傷つける危険がはなはだ多い。 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来す憂いはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経たり、あるいは若い者でも少し思慮を深く用うる者であれば、この過ちに陥ることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯々諾々と、世の風潮によるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷るのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安寧はそれで持って行く。 世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても しかるに何事についても消極的に世に処すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦しくなるのみで、 世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからだ置き所なし と嘆くにいたるであろう。
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自警録・第十三章 広く世を渡る心がけ・狭き己れの好き嫌いで世に処するは危険僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、 「甲君、君は丙君と仲がよいか」 と聞く。甲は、 「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」 といえば、乙はやや驚いた顔して、 「何のためだろう、丙はあちこちで君の悪口を言い歩くよ」 と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を懐かぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合点がゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二心あるもので、僕に向かってはよい顔しながら、蔭にまわると悪口する、はなはだ卑むべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨拶しなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻然として悟るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし己れを嫌っている。己れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、嫌な者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。 せまき己れの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに憂き世の中がいっそう憂くなって、人を恨み己れを恨み、天を怨み、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一生を送るようなものである。
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自警録・第十三章 広く世を渡る心がけ・好き嫌いで人を判断する過誤刺身の嫌いな者は医師よりいかに刺身の消化よきこと、滋養分の多きことを説かれても、何とかけちをつけて毒でもあるかのごとくけなす。これに反し酒の好きな者は医師がいかにその害を説くも、百薬の長なりと頑張って聴かぬものが多い。心の好き嫌いと物の善悪を混同する者は実際を見る明を失う。 「凝っては思案に及ばず」というが、なにか一つを好むと、その好きなものの長所のみが映って短所は目に入らぬ。この好き嫌いをもって物を判断する標準にすると、とかく曲直の分別ができなくなり、つまらぬことに争い、大きなことにも争いを起こす。はなはだしきは政治の問題についても有力なる某政治家は嫌いだと思えば、その人の政見がいかに正しくともこれを誤れるがごとくに批評し、たまたまこれを攻撃する理論が発見されなければ、説そのものは善きも、その説を来す動機がはなはだ卑しいとか何とかいって、説そのものをも卑むようになる。ある外人が日本人を評してかくのごとく感情に高い国民は憲法政治を実行し得るだろうかと疑ったことがある。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・表裏の善悪を判断する標準(2)しかしその当人が果たして欺く意志であるかどうかは容易に判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外の驚きに打たれて、その人が故意に我を欺けりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、欺かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度で、彼はことさらに隠しもせねば包んでもいなかったが、吾人がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴することもなく、また他人にそう思わせようとも力めず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優る裏をつけているだろうと推量し、ことさら尋ねもせずに独り合点している間に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺いた、表裏のはなはだしい奴だと詈る者を多く見る。先方が欺いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一口にいえば悪い意味における裏面の有無を判断する者は当事者一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。 近ごろ世間に海軍とやら本願寺とやら何々党とやらに関して、種々面白からざる表裏ばなしを聞くが、罪は悪むべきも、その関係者の人については、慈悲の心をもって当たりたい。いわんや吾人は平素交わる人々について、図らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表と裏と、外と内と、皮と肉との別あるを心得ておきたい。
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自警録・第十三章 広く世を渡る心がけ・反対説にも耳を傾ける度量を養え衣服とか外形上のことならば、単に非難する人の心を不愉快ならしめ、非難される人の心を不愉快にするだけにてすむが、学術あるいは政治上の説が違う場合のごときは、自分の気に入りたる説なれば、大いに怪しい点があってもこれを是とし、自分が承引しかねる場合にはまったくこれを異論なるかのごとく咎むるは、その害の及ぼすところ広くかつ大きい。 願わくは説が違ったときは、はてな、己れの考えとは違うが、一たびはその意見を聞こう、正邪の判断を下す前に一応は取調べもし、耳を傾けもするだけの度量が欲しい。少しく自分の説と異なればただちに曲学阿世だとか、俗論だとか売国的説だとか異端だとか議論はそっちのけにして、論者の動機やら人格までをかれこれ言うようなことは、度量の狭きを示すと同時に、進歩する余地なきことを自白するのである。 前にもいった通り、説は成るたけ違うのが面白い。今日まで学問の進歩は種々の異なった説から、互いに討議し批評して得た結果にほかならぬ。昔は異説あると宗教の教えに背くとかあるいは国家に危険なりとして圧迫を加えた。その時代は人知の最も進まぬときである。ちょっと聞いて自分の心にはなはだ嫌に思う説でも、一応は聞くだけの度量を養うことを力めたい。さらに力めたきことは自分の嫌いと思う人の説なり行動なりを、冷静に客観的に考える心を養いたい。 昔より私なしという言葉は公平なる態度を現すに用いられるが、無私というは狭い量見のない、己ればかりが正しいのでない、また己れの利益のためでないという意味である。たとえば孔子が『春秋』を書くに私心をはさまなかったとは、『春秋』に出る人物を批評するに好きだから褒める、癪にさわるから悪く書くというのでなく、好悪は論外として、自分と性質は違うとも、正しい者は正しいと公平な判断を下したからである。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・読者中にも必ずかかる経験あらん仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」