自警録 / 第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・知恩は日本民族の特長
古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固有な思想が一つでもありはせぬかと、鵜の目鷹の目で、本邦の制度やら歴史やらを調べると、神道だけは純粋なる大和民族の思想であることがわかる。 もっともこれとても、儒教が入って以来、その説くところやら、その儀式がたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教理さえも変化し、おそらくこんにち神道の名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神道に固有なものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンの言および黒住氏の所説を読んで、これを現に我が周囲に行わるるいわゆる神道に比すると、ちょうど『新約聖書』の福音書を見た目で、天主教の儀式を見たときに起こる感よりもさらに不愉快なる思いを起こす。ゆえに僕は神道の純粋なる教えを重んずると同時に、その名を冠っていろいろなる迷信を説いたり、あるいは頑冥な排他的主張を恣にする神道の宗派をいうのではない。アストンにしても、黒住にしても、その説くところ間違いなきを保し難いが、我が固有の教えは知恩の念に満てるものなりとの一条は過ちなしと信ずる。 しかして神道が日本民族固有の観念を代表するものならば、恩誼を知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。
書き下し
古来、日本人は宗教と言い、学術と言い、中国、朝鮮をはじめ、外国から輸入して、ほとんど自国に起こった大思想、哲学、美術もないことは、誰しも承知しているが、何か日本に固有な思想が一つでもありはせぬかと、鵜の目鷹の目で、本邦の制度やら歴史やらを調べると、神道だけは純粋なる大和民族の思想であることがわかる。 もっともこれとても、儒教が入って以来、その説くところやら、その儀式がたいそう違って来たし、ことに仏教輸入以来はその教理さえも変化し、おそらくこんにち神道の名のもとに、世に説かるる説の少なからざる部分は、神道に固有なものであるまいと疑う理由も確かにある。僕はさきのアストンの言および黒住氏の所説を読んで、これを現に我が周囲に行わるるいわゆる神道に比すると、ちょうど『新約聖書』の福音書を見た目で、天主教の儀式を見たときに起こる感よりもさらに不愉快なる思いを起こす。ゆえに僕は神道の純粋なる教えを重んずると同時に、その名を冠っていろいろなる迷信を説いたり、あるいは頑冥な排他的主張を恣にする神道の宗派をいうのではない。アストンにしても、黒住にしても、その説くところ間違いなきを保し難いが、我が固有の教えは知恩の念に満てるものなりとの一条は過ちなしと信ずる。 しかして神道が日本民族固有の観念を代表するものならば、恩誼を知るは取りもなおさず日本民族の特長であると断言してよかろうと思う。
現代語訳
昔から日本人は、宗教といい学術といい、中国や朝鮮をはじめ外国から輸入して、自国に起こった大きな思想、哲学、美術がほとんどないことは、誰もが承知しています。それでも、何か日本に固有の思想がひとつでもありはしないかと、鵜の目鷹の目で、わが国の制度や歴史を調べてみると、神道だけは純粋な大和民族の思想だとわかります。 もっとも、これとても、儒教が入ってからは、その説くところも儀式もたいそう違ってきました。とくに仏教が入ってからは、教理さえ変化し、おそらく今日、神道の名のもとに世に説かれている説の少なからぬ部分は、神道に固有のものではあるまいと疑う理由も確かにあります。私は先のアストンの言葉と黒住氏の説を読んで、それを現に私たちの周囲で行われているいわゆる神道と比べると、ちょうど新約聖書の福音書を読んだ目で、カトリックの儀式を見たときに起こる感じよりも、さらに不愉快な思いがします。ですから私は、神道の純粋な教えを重んじると同時に、その名を冠していろいろな迷信を説いたり、頑なで排他的な主張をほしいままにする神道の宗派を言うのではありません。アストンにしても黒住にしても、その説くところに間違いがないとは保証しがたいのですが、わが固有の教えは知恩の念に満ちたものである、という一条は誤りがないと信じます。 そして、神道が日本民族固有の観念を代表するものなら、恩義を知るということは、取りもなおさず日本民族の特長だと断言してよいと思います。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・日本人ははたして恩知らずか単に右のごとくいうたなら、僕がアストンの説に反対の考えでも持ち、あるいは黒住の教えが黒住という個人より起こったもので、大和民族の代表的思想にあらざるとでも主張するごとくに聞こゆるだろうが、僕はあくまでも恩を知ることは神道の基礎、大和民族の美風なることを信じたいのである。 西洋人はともすると、東洋人は恩を知らないという。また我々とても相互に、彼奴は恩を知らぬ奴だといって悪口する。恩を知るをもって大和民族の特長などと誇っても、しばしば自分に顧みないと、人から受けた親切ほど忘れやすいものはない。否、人のしたことが、はたして親切であるか不親切であるか、その区別すらもなかなかしない。また人が我がためにしてくれたことの程度は、はなはだ鑑別しにくいものである。このへんの弁えを誤ると、とかく他人の眼には、恩知らずの感を与える。 ことに西洋人が日本人は恩を知らない国民なりというのは、この辺から起こっているらしい。すなわち日本人は恩を知らないのではなく先方の人がどれほどの親切でしたのかが分からぬために、有難うというべきところを言わなかったりする。すなわち事情が判然せぬために、思想までが大変違うように思わしむる惧がある。そこで外国人の書いた書物のうちに、折々日本人の短所の中についても、恩知らずの譏りあることは、これは仮りに誤解から起こったとみなしておいて、しばらくこれは預りとしてここには省こう。ここではもっと手近い、お互いの間の交際上、恩誼の観念について注意すべきことを述べたい。
-
自警録・第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・英国碩学の観たる神道の要旨先年交換教授として渡米するにつき、その準備の一つとして、研究というほどの深い事もないが、少しく調査したいことがあって、神道に関する書物を読んでみた。そのうちに英国の碩学、ことに日本の古代宗教および文学に精通せるアストン先生の書中に、神道は知恩と愛情の宗教なりという一句があった。これが僕の眼に大いにとまった。また同氏の説明を見てますますこの一句の味わいが理解せられた。 その後ある友人が、日本の神道を研究するには、必ず黒住宗忠の説を窺わねばならぬと注意してくれて、懇にもこの偉人に関する出版物を送ってくれた。これを読んでいっそうアストン氏のさきの言の誤らざると、否、誤らざるどころでない、実によく穿っていることを感じて、その後ますます恩誼を知るの感を深めることについて、心のうちに努めている。
-
自警録・第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・恩の観念は固有か輸入かしかしここに奇態に思うことは、古い言葉にはあるいはあって、僕の無学のために知らぬのかは測られぬが、恩という字に和訓のないことである。こういったなら、和学者のお叱りを受けて、こういう訓がある、ああいう訓があるという反証が出るかも知れぬが、それにしても、これほどな大和民族の特長が、普通一般に漢音で流通していることは情ない。 恩の漢音はすこぶる発音に便利で、耳障りもよいから、ながたらしい大和言葉の代りに通用するにいたったかも知れないが、実際我々がこんにち外国の言葉を用うるは簡単であるからとて用いる。単語は何か新しい思想を含んだものであって、普通にある言葉をわざわざ西洋語を借りて言い表わすことは、よしあっても稀である。 マッチという詞は今どんな田舎でも用いている。しかるに僕の子供のときは早附木といったものだ。今はそんなことをいうものはほとんどない。早附木というよりもマッチというほうが簡単だからでもあろう。さらばとて単に簡単だという理由で、従来用い来たった詞なら早附木をマッチと替えることはない。従来は附木だけはあったが「早」なる形容詞を冠せて通用させようとしても通用しなかった。「ランプ」を行燈とも手燭とも翻訳しない。ペンのごときは僕らが始めて洋学を修めるころには筆または金の筆と訳したものだ。しかるに今は日本のすみずみに行ってもペンで通る。金の筆というよりはペンというほうがむしろ簡便である。さればとてペンなる言葉をかりて、古来あった筆の文字に代用することはない。そこで恩という言葉も発音の易きからとて、従来あった思想に代えたものか少しく疑いが起こる。恩なる観念はやはり儒教、仏教から入ったものでなかろうかと疑いが起こって来る。 僕は世の言語学者に望みたきは、いま用うる文字こそ漢音なれ、思想は大和民族の特長なりということを、言語のほうからも証拠を明瞭にする一条である。
-
『武士道』第二章 武士道の淵源・神道の鏡試みに神祠に賽せんか、社殿の裏、礼拝の物体、祭具の多きを見ずして、霊廟唯だ質素なる一面の銅鏡を懸くるあり。此鏡面を懸くるの理は、以て人心に象り、此心もし曇らずば、神明の霊姿を映ずべしとの義なり。故に人もし神社に詣づれば、我貌の神鏡に映ずるを見るべく、礼拝の旨趣は、希臘デルファイの宮の託宣に『己を知れ』とあると、其帰を斉しくするものなり。されど希臘の宗教も神道にても、自知とは、自己の身体の構造、もしくは精神物理を明かにするの謂にあらずして、其知識は即ち道徳的なり、我徳性を内に自から省ることなり。史家モムゼンは、希臘人と羅馬人との礼拝を比較して、『希臘人は天を仰ぎ、其祈念は即ち冥想なりしと雖、羅馬人は之に異りて、頭を被ひ、其祈念は即ち自省なりき』と云へるが、日本人の宗教観念は、其質すこぶる羅馬人に類するものあり。
-
『武士道』第二章 武士道の淵源・まつりごとは政事と祭事神道の教義は、乃ち日本民族の情感的生命の二大特質たる忠君、愛国の道を説くものなり。ナップ氏が、『希伯来の文学に於ては、聖書の記者の語る所に就いて、神なるか、はた国家なるか、天なるか、はたエルサレムなるか、救世主なるか、はた国民なるか、其異同を弁ずるに苦しむものあり』とは、すこぶる真を穿てるの言なり。而して此れと類せる混同は、我国民信仰の用語に於ても亦た之を認む。高天原が天にして、又た国土たり、『まつりごと』が政事たり、祭事たるが如し。其言語の双関せるが故に、予は論理学者の言を借りて、之を用語の混同と云ふ。されど神道は、我邦人の国民的本能と、民族的感情とに因りて発生せるものにして、組織哲学たり、又た合理神学たることを僭するものに非らず。
-
『武士道』第十六章 武士道の命脈・日本人の欠点もまた武士道に存す典雅流麗の文字、能く日本人の心機を解明したる小泉八雲を読まんか、さらば直ちに、其心機の作動は即ち武士道の作動の一例なるを見ん。我国上下を通じて礼節を重んずることも、亦たこれ武士道の遺産にして、世界の熟知する所、更に絮説を要せず。所謂『矮小漢』の不撓の体力を具し、又た堅忍勇敢なるは、日露戦役の能く証明したる所なり。人多く問ふ、『斯民にも勝りて忠君愛国の念を有するの国家ありや』と。而して吾人は傲然として、『他また是れ有ること無し』と答ふるを得るは、深く武士道の教訓に負ふものあるを感謝せずんばあらず。之に反し、日本人の性格に於ける彼の欠点短所は、其の責又た大いに武士道に存すとするは、すこぶる其当を得たり。