武士道 / 第二章 武士道の淵源・神道の鏡
試に神祠に賽せんか、社殿の裏、禮拜の物體、祭具の多きを見ずして、靈廟唯だ質素なる一面の銅鏡を懸くるあり。此鏡面を懸くるの理は、以て人心に象り、此心若し曇らずば、神明の靈姿を映ずべしとの義なり。故に人若し神社に詣づれば、我貌の神鏡に映ずるを見るべく、禮拜旨趣は、希臘デルフアイの宮の託宣に『己を知れ』とあ其歸を齊しくするものなり。されど希臘の宗教本神道にても自知とは、自己の身體の構造、若くは精神物理を明かにするの謂にあらずして其知識は即ち道德的なり我德性を內に自から省ることなり。史家モムゼンは、希臘人と羅馬人との禮拜を比較して希臘人は天を仰ぎ、其祈念は即ち冥想なりしと雖、羅馬人は之に異りて、頭を被ひ、其祈念は即ち自省なり」きと云へるが日本人の宗教觀念は、其質頗る羅馬人に類するものあり。
新字:試に神祠に賽せんか、社殿の裏、礼拝の物体、祭具の多きを見ずして、霊廟唯だ質素なる一面の銅鏡を懸くるあり。此鏡面を懸くるの理は、以て人心に象り、此心若し曇らずば、神明の霊姿を映ずべしとの義なり。故に人若し神社に詣づれば、我貌の神鏡に映ずるを見るべく、礼拝旨趣は、希臘デルフアイの宮の託宣に『己を知れ』とあ其帰を斉しくするものなり。されど希臘の宗教本神道にても自知とは、自己の身体の構造、若くは精神物理を明かにするの謂にあらずして其知識は即ち道徳的なり我徳性を内に自から省ることなり。史家モムゼンは、希臘人と羅馬人との礼拝を比較して希臘人は天を仰ぎ、其祈念は即ち冥想なりしと雖、羅馬人は之に異りて、頭を被ひ、其祈念は即ち自省なり」きと云へるが日本人の宗教観念は、其質頗る羅馬人に類するものあり。
書き下し
試みに神祠に賽せんか、社殿の裏、礼拝の物体、祭具の多きを見ずして、霊廟唯だ質素なる一面の銅鏡を懸くるあり。此鏡面を懸くるの理は、以て人心に象り、此心もし曇らずば、神明の霊姿を映ずべしとの義なり。故に人もし神社に詣づれば、我貌の神鏡に映ずるを見るべく、礼拝の旨趣は、希臘デルファイの宮の託宣に『己を知れ』とあると、其帰を斉しくするものなり。されど希臘の宗教も神道にても、自知とは、自己の身体の構造、もしくは精神物理を明かにするの謂にあらずして、其知識は即ち道徳的なり、我徳性を内に自から省ることなり。史家モムゼンは、希臘人と羅馬人との礼拝を比較して、『希臘人は天を仰ぎ、其祈念は即ち冥想なりしと雖、羅馬人は之に異りて、頭を被ひ、其祈念は即ち自省なりき』と云へるが、日本人の宗教観念は、其質すこぶる羅馬人に類するものあり。
現代語訳
試みに神社に参ってみると、社殿の奥に礼拝の対象や祭具が多くあるのではなく、ただ質素な一面の銅鏡が掛かっています。この鏡を掛ける理由は、人の心にかたどり、この心がもし曇っていなければ神の霊姿を映すはずだという意味です。ですから人が神社に参れば、自分の顔が神鏡に映るのを見るはずで、礼拝の趣旨は、ギリシャのデルフォイの神託に、己を知れとあるのと帰するところが同じです。ただしギリシャの宗教でも神道でも、自らを知るとは、自分の身体の構造や精神の働きを明らかにすることではなく、その知識は道徳的なもので、自分の徳性を内に省みることです。歴史家モムゼンはギリシャ人とローマ人の礼拝を比べて、ギリシャ人は天を仰ぎ、その祈りは瞑想であったが、ローマ人はこれと違って頭を覆い、その祈りは自省であった、と言いました。日本人の宗教観念は、その質がかなりローマ人に似ています。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『格言聯璧』持躬類・己の不是を見るは萬善の門衆の惡むは必ず察す、衆の好むを必ず察するは易し。 自ら惡むは必ず察す、自ら好むを必ず察するは難し。 人の不是を見るは、諸惡の根なり。 己の不是を見るは、萬善の門なり。 過ちと爲さずの三字、多少の良心を昧卻す。 奈何ともする沒しの三字、多少の體面を抹卻す。
-
『呻吟語』内篇・修身・己が惡を攻むる者己が惡を攻むる者は、人の惡を攻むるに顧るを得ず。若し嘵嘵爾として人を雌黃せば、定めて是れ自ら治むること疏なる底ならん。
-
『酔古堂剣掃』集醒・時時に檢點し得到る事無ければ便ち閒雜の念頭有りや否やを思ひ、事有れば便ち粗浮の意氣有りや否やを思ふ。意を得れば便ち驕矜の辭色有りや否やを思ひ、意を失へば便ち怨望の情懷有りや否やを思ふ。時時に檢點し得到りて、多より少に入り、有より無に入る、才かに是れ學問の真消息なり。
-
『大和俗訓』巻之七・躬行下一夜にして後、けふのわが身のなせるわざを、よくかへりみて、ひが事あらば、後日のかがみとして、改めん事を思ふべし。毎夜かくの如くすべし。一人の身の上、さしあたりて為すべきこと多し。よく思ひて、油断なく、早くつとむべし。油断あれば、急なる事はさしおきて急がず、急ならざる事をいそぎて勤む。緩急をかんがへて、前後の次第を失ふべからす。さして用なき事をつとめ、いたづら事を好みて日をおくるは、はかなしといふべし。若き時は、殊にすべきわざにも心を用ひずして、むなしく過すこと多し。よくよく心をつくべし。
-
『近思録』巻2 為学若し往来憧憧然として、其の私心を用ひて以て物に感ずれば、則ち思ひの及ぶ所の者は、能く感じて動く有るも、及ばざる所の者は感ずること能はざるなり。係る有るの私心を以て、既に一隅一事に主たれば、豈に能く廓然として通ぜざる所無からんや。君子の艱阻に遇ふや、必ず自ら身を省みて、失有りて之を致すかと。未だ善ならざる所有れば則ち之を改む。心に歉(あきた)らざる無ければ則ち勉めを加ふ。乃ち自ら其の徳を修むるなり。明に非ざれば則ち動くも之く所無く、動に非ざれば則ち明も用ふる所無し。習は、重ねて習ふなり。時に復た思ひ繹ねて、中に浹洽すれば、則ち説ぶなり。善を以て人に及ぼして信従する者衆し、故に楽しむべきなり。人に及ぼすことを楽しむと雖も、是とせられずして悶ゆる無きは、乃ち所謂君子なり。
-
『大和俗訓』巻之七・躬行下一子曰、躬自ら厚くして、人を責むるに薄ければ、うらみに遠ざかる。言ふ意は、わが身の行をあつくし、十分に善くせんことを求めて、常に我が身の行のたらざる事を思ひて、つとめ行ふべし。人の足らざるをゆるして責むべからず。かくの如くすれば、人の怨なし。