武士道 / 第二章 武士道の淵源・まつりごとは政事と祭事
神道の教義は、乃ち日本民族の情感的生命の二大特質たる忠君、愛國の道を說くものなり。ナツプ氏が、『希伯來の文學に於ては、聖書の記者の語る所に就いて、神なるか、將た國家なるか、天なるか、將たエルサレムなるか、救世主なるか將た國民なるか其異同を辨ずるに苦しむものあり』とは、頗る眞を穿てるの言なり。而して此れと類せる混同は我國民信仰の用語に於ても亦た之を認む。高天原が天にして、又た國土たり、『まつりごと』が政事たり、祭事たるが如し。其言語の雙關せるが故に、予は論理學者の言を假りて、之を用語の混同と云ふ。されど神道は我邦人の國民的本能と、民族的感情とに因りて發生せるものにして、組織哲學たり、又た合理神學たることを僣するものに非らず。
新字:神道の教義は、乃ち日本民族の情感的生命の二大特質たる忠君、愛国の道を説くものなり。ナツプ氏が、『希伯来の文学に於ては、聖書の記者の語る所に就いて、神なるか、将た国家なるか、天なるか、将たエルサレムなるか、救世主なるか将た国民なるか其異同を弁ずるに苦しむものあり』とは、頗る真を穿てるの言なり。而して此れと類せる混同は我国民信仰の用語に於ても亦た之を認む。高天原が天にして、又た国土たり、『まつりごと』が政事たり、祭事たるが如し。其言語の双関せるが故に、予は論理学者の言を仮りて、之を用語の混同と云ふ。されど神道は我邦人の国民的本能と、民族的感情とに因りて発生せるものにして、組織哲学たり、又た合理神学たることを僣するものに非らず。
書き下し
神道の教義は、乃ち日本民族の情感的生命の二大特質たる忠君、愛国の道を説くものなり。ナップ氏が、『希伯来の文学に於ては、聖書の記者の語る所に就いて、神なるか、はた国家なるか、天なるか、はたエルサレムなるか、救世主なるか、はた国民なるか、其異同を弁ずるに苦しむものあり』とは、すこぶる真を穿てるの言なり。而して此れと類せる混同は、我国民信仰の用語に於ても亦た之を認む。高天原が天にして、又た国土たり、『まつりごと』が政事たり、祭事たるが如し。其言語の双関せるが故に、予は論理学者の言を借りて、之を用語の混同と云ふ。されど神道は、我邦人の国民的本能と、民族的感情とに因りて発生せるものにして、組織哲学たり、又た合理神学たることを僭するものに非らず。
現代語訳
神道の教義は、日本民族の情感的な生命の二大特質である忠君と愛国の道を説くものです。ナップ氏が、ヘブライ文学においては、聖書の記者が語るところについて、神なのか国家なのか、天なのかエルサレムなのか、救世主なのか国民なのか、その違いを見分けるのに苦しむものがある、と言ったのは、かなり真を突いた言葉です。そしてこれに似た混同は、わが国民の信仰の用語にも認められます。高天原が天であり、また国土でもあり、まつりごとが政事であり、祭事でもあるようなものです。その言葉が二重にかかっているので、私は論理学者の言葉を借りて、これを用語の混同と呼びます。ただし神道は、わが国の人の国民的な本能と民族的な感情から発生したもので、体系的な哲学であるとか、合理的な神学であるなどと僭称するものではありません。
解説
この章句が説くこと
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