自警録 / 第十六章 富貴の精神化・黄金は土芥か宝珠か
いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々に行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔っておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現象を人なる立脚点から見ないからである。 かく長たらしく書いたことを回顧すると、僕の平生の筆法とは大分調子が異っておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。 我々も、よし富豪者にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少であっても、その用法については大いに思慮を要することで、金を路傍の土芥のごとくみなすのはいかにも欲がなく潔よく聞こえるが、また丁寧に考えると金は決して己れの物ではない。社会共有のもので、自分の懐に入っている間とても、なお一時社会から預ったようなものである。いわば依託金のごときものであるからして、これを無意味に浪費しすなわち土芥同然に取り扱うことははなはだ怪しからんこととも言える。あえて言葉咎めをするの意ではないが、金を土芥視するのも宝珠視するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧進歩は覚束ない。昭憲皇太后の御歌に、 持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり
書き下し
いろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々に行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔っておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現象を人なる立脚点から見ないからである。 かく長たらしく書いたことを回顧すると、僕の平生の筆法とは大分調子が異っておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。 我々も、よし富豪者にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少であっても、その用法については大いに思慮を要することで、金を路傍の土芥のごとくみなすのはいかにも欲がなく潔よく聞こえるが、また丁寧に考えると金は決して己れの物ではない。社会共有のもので、自分の懐に入っている間とても、なお一時社会から預ったようなものである。いわば依託金のごときものであるからして、これを無意味に浪費しすなわち土芥同然に取り扱うことははなはだ怪しからんこととも言える。あえて言葉咎めをするの意ではないが、金を土芥視するのも宝珠視するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧進歩は覚束ない。昭憲皇太后の御歌に、 持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり
現代語訳
さまざまな経済的救済法や社会改良法が、あちこちで行われているが、それでも最後の解決からははるかに隔たっていることは、だれもが感じることである。その根本的な理由は、経済現象を、人という立脚点から見ないからである。 このように長々と書いてきたことを振り返ると、私の平生の書きぶりとは、だいぶ調子が違っている。国家や社会、経済、労働界など、個人以外のことに力を込めたようであるが、こうした大問題に対して、個人はきわめて無力で、何もなすところがないとあきらめるなら、それは大きな誤りで、どのような社会の改良も、個人の思想のほかから起こるものではない。国家も社会も、みずからイニシアチブを取るものではない。人があって初めて問題も起こり、改良も行われるのである。 私たちは、たとえ富豪でなくても、また一方、労働者でなくても、お互いに所有する財産や所得がどれほどわずかであっても、その使い方については大いに思慮が必要である。金を道ばたの土やごみのように見なすのは、いかにも欲がなく潔く聞こえるが、よく考えると、金は決して自分のものではない。社会共有のものであって、自分の懐に入っている間も、なお一時的に社会から預かっているようなものである。いわば預かり金のようなものだから、これを無意味に浪費し、つまり土やごみ同然に扱うのは、はなはだけしからんことだとも言える。言葉じりをとがめる意図ではないが、金を土やごみとみるのも宝の珠とみるのも、要は、人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物の所有者の精神がどうであるかを明らかにして、初めて決めるべきことだと思う。つまり、金銭財産を精神化するのでなければ、社会の安寧と進歩はおぼつかない。昭憲皇太后の御歌に、 持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり (黄金は、持つ人の心しだいで、瓦にも玉にもなる)
解説

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『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在りかく論じ来れば、金は実に威力あるものなれども、しかしながら金はもとより無心である。善用されると悪用されるとは、その使用者の心にあるから、金は持つべきものであるか、持つべからざるものであるかは、卒爾に断定することは出来ない。金はそれ自身に善悪を判別するの力はない。善人がこれを持てば善くなる、悪人がこれを持てば悪くなる。つまり所有者の人格いかんによって善ともなり悪ともなる。この事に関しては、余は常々人に語っているが、昭憲皇太后の、もつ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・ストライキの動機でも英人と米人とは違う世には労働問題とか経済問題とか社会問題などを、とかく道徳と別に考うべきもののごとく思っている人があるけれども、人たる観念を除いて、これらの問題は解決出来まい。しかして人たる観念の内からは道義観念を排除することが出来ない。 たとえば近来(第一次大戦以前)英国でしきりにストライキが流行る。アメリカにおいても近来あらゆる方面にストライキが行われる。しかるにある英国人の話に、英米のストライキの性質において大いに異なるものがある。米国では給料を増すことを主として要求するし、英国においては労働時間を減らすことを主とすると言った。この差の起こる所以は、アメリカ人はもっと金を欲しい、自ら貯蓄して後日安楽に暮らそうというのである。イギリス人はこんにちの制度ではほとんど家族の顔を見ることも出来ない。また人間としての娯楽を求めることも不可能である、金は要らんがもっと人間らしい生活をしたいというところにあるという。両者とも根底にさかのぼれば労働者も人なりという観念から来ているために、いわゆる人の道をはなれて労働その他経済の問題の解決は覚束ない。 しからばとていわゆる社会党(わが輩は敢ていわゆるという文字を使う)の主張するように、現今の社会を目茶々々に破壊しようというごとき簡単な案では、労働問題も社会問題も解決できない。今後は富貴の義務、労働の権利をば、法律以上に研究解釈して、前に言ったようにこれらのことを精神化するにあらざれば、現世界の安寧もまた真の進歩も望むべからざるものと思う。
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『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在りとの御歌は、実に感佩敬服に堪えぬのである。しかるに世間の人々は、とかくこの金を悪用したがるものである。されば古人もこれを戒めて「小人罪なし、宝を抱くこれ罪」とか、「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」などと言ってある。論語を読んで見ても、「富みかつ貴きは、我において浮雲のごとし」と言い、または「富にして求むべくんば執鞭の士といえども、我またこれを為さん」と言い、大学には「徳は本なり、財は末なり」と言ってある。今かかる訓言を一々ここに引用したならば、ほとんど枚挙に遑なしであろうが、これは決して金を軽視してもよいという意味ではない。いやしくも世の中に立って完全の人たらんとするには、まず金に対する覚悟がなくてはならぬ。そしてかかる訓言に徴しても、社会における金の効力はいかに思察すべきものであるか、すこぶる考慮を要するのである。けだしあまりこれを重んじ過ぎるのも誤りなら、またこれを軽んじ過ぎるのもよろしくない。すなわち「国、道ありて貧かつ賤しきは恥なり、国、道なくして富かつ貴きは恥なり」と言って、孔子も決して貧乏を奨励はなさらなかった。ただ「その道をもってせざれば、これを得るとも処らざるなり」である。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・経済状態と道徳的態度の変化昔の経済社会とは違って近代は一国内における経済現象さえなかなか複雑になって来ているに、いわんや国家的経済現象に至ってはなかなか個人の力で如何ともできぬことがままある。したがって経済行為に対する道徳的態度は昔のように簡単に行くまい。 たとえば昔なら物を造る者とこれを用うる者が直接に出会って、相談のうえに物々交換を行った。こういう場合には値段を定むるに両者間の承諾の上に成るから、互いの満足のもとに終わる。こんにちでは値段を定むるに造る者と用うる者は顔など会わすことは少ない。両者の間に仲買いあり卸売あり小売あり数人の媒介を経て、我々の最も簡単なる需用も供給せられる。なかでも株式会社のごとき大組織の製造場において産出せらるる物品のごときに至っては、物価を定むる分子はなおさら複雑を極めて来る。 なお進んでトラスト組織の下に製作せらるる物品は買い手の相談などは毫も省みらるるものではない。この一例をもってみても諸色が上がるの下がるの、米価が騰貴したために貧民が困しむの、あるいは暴徒が起こるの、あるいは犯罪が増すというごとき道徳的行為も昔の簡単なる組織時代と同筆法で解決が出来ぬから、我々は新時代の経済界の現象に対する道徳的態度も新たにすることは免れないと思う。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
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『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在り金は尊いものであるとか、または貴ばねばならぬものであるとか言うことに関しては、古来ずいぶん多くの格言もあり、俚諺もある。ある人の詩に「世人交わりを結ぶに黄金をもってす、黄金多からざれば交わり深からず」とある一句などは、黄金は友情という形而上の精神までも支配するの力あるものとも取れる。精神を尊んで物質を卑しむ東洋古来の風習では、黄金によって友情をまで左右されるのは、人情の堕落思いやられて甚だ寒心の至りであるが、しかしこういうことが我々の日常よく出会う問題である。例えば親睦会などというと必ず相集まって飲食する。これは飲食も友愛の情を幇助するからである。また久しぶりに来訪してくれる友人に、酒食を供することも出来ないようでは、締交の端緒も開きがたい。そしてこれらのことには皆黄金が関係する。