自警録 / 第十六章 富貴の精神化・富者の権利と義務(1)
話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階を授けらるるとか、あるいは叙勲せらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花も採り実も取る者はついに幹も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安寧も危くするものであろうと思う。 今日いずれの国においても財産の安固を保障しない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に嵩まるとも富を蓄積占有することを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすれば己れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに載っている。かつ偉大なものである。
書き下し
話は横道にはいるようであるが、折々、我が国においても実業家に位階を授けらるるとか、あるいは叙勲せらるべしという議論がさかんに行われる。詩人シラーのいうごとく人生の目的として花を選ぶ者とその実を選ぶ者とは別種の者に数えるが至当であろう。花も採り実も取る者はついに幹も根も取り尽し、その結果は社会の進歩も安寧も危くするものであろうと思う。 今日いずれの国においても財産の安固を保障しない法律はない。法律にそむかぬ以上は如何なる方法によって、如何なる額に嵩まるとも富を蓄積占有することを許すがために、富む者はますます富むの傾向あることは、今ここで述べるを要しない。この富む者はややもすれば己れの財産の権利あるを知って義務あるを忘れることも疑うべからざる事実であって、どこの法典を見ても財産の権利は明らかに載っている。かつ偉大なものである。
現代語訳
話は横道にそれるようだが、折々、わが国でも、実業家に位階を授けるべきだとか、叙勲すべきだという議論がさかんに行われる。詩人シラーが言うように、人生の目的として花を選ぶ者と、その実を選ぶ者とは、別種の者に数えるのが適当であろう。花も取り実も取る者は、ついに幹も根も取り尽くし、その結果、社会の進歩も安寧も危うくするだろうと思う。 今日、どこの国でも、財産の安全を保障しない法律はない。法律に背かない以上、どのような方法で、どのような額に積み上がろうとも、富を蓄積し占有することを許されるために、富む者はますます富む傾向があることは、ここで述べるまでもない。この富む者は、ともすれば自分の財産に権利があることは知っていても、義務があることを忘れるのは疑いのない事実であって、どこの法典を見ても、財産の権利は明らかに載っている。しかも、その権利は偉大なものである。
解説

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自警録・第十六章 富貴の精神化・富者の権利と義務(2)しかるに財産の義務なるものは、わずかにその負担する税額ぐらいに止まって、その額も重い重いと言いながら権利に較ぶれば、案外に軽いものと思われる。ことに法文の読みようによっては、義務を忌避する道も随分ある。ゆえに世に勢力ある人の中には種々なる口実をもって財産の義務をことごとく負担しないものがある。現に我々が仮りに所得税の負担額を較べて見ればただちに判るであろうが、わずか二、三千円の俸給を受くる学校教師などが、先の何々大臣、あるいは何々爵にして市内市外に許多の高甍宏閣を構えている人よりも以上の租税を払っている例すらある。そんなら、彼ら大尽は地租の目の下に多額の負担ありやと尋ぬれば、彼らの園邸は宅地にあらずして、山林と登録してあるから、税率もはなはだ少ない。かくのごときは財産の権利を享有しながら、その義務を負担しないというものである。富が跋扈するというと、いつも米国を例にとるが、焉んぞ知らん日本にもその例に乏しからぬを。 僕がかくのごとき言を述べたならば、あるいはいたずらに人を責むるように聞こゆるであろうが、わが輩はそれがし何某なる個人を攻撃する考えは毛頭ない。法文の曲解を難ずる意であって、僕は君子ではないが、人の罪を憎んで、その人を憎まないように心がける積りである。ゆえに富める者が不正なことをし、あるいは人を苦しめてなお蓄財することがあるにしても、その人よりも社会の制度が不完全ならびに輿論がまだ未熟にして、富者といわんよりは富貴の義務を自覚しないことを難じたい。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(2)ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕れる。ゆえに実業を重んずる、否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富を為す者も許多ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏めに纏めて攻撃の的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産を破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔なる紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富を為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯するものではない。不正なる行為は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義一色で金を拵える者もある。 ゆえに富貴必ずしも不正ならず、子夏が「富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪と言えず、むしろ天の賜物という意に取れる。袈裟と坊主が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧にあらざる僧も世には許多ある。またその代りには袈裟を着た俗人もまた多い。「貯めるほど穢ないものは塵と金なり」という諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥とても貯蔵法よろしきを得たなら、清くする工夫もあろう。黄白に至りては精励克己の報いとして来たるものは決して少なくなかろう。古人の言にあるごとく、 「祖宗の富貴は詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。 人の立身や家の興るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨む心に曳かされて判断を誤りやすい。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・黄金は土芥か宝珠かいろいろ経済的救済法あるいは社会改良法など区々に行われているが、なお最後の解決よりははるかに隔っておることは誰しも感ずることである。その根本的理由は経済的現象を人なる立脚点から見ないからである。 かく長たらしく書いたことを回顧すると、僕の平生の筆法とは大分調子が異っておる。国家あるいは社会とかあるいは経済とか労働界とか個人以外のことに力を籠めたようであるが、かくのごとき大問題に対して個人ははなはだ力なき者で、なんのなすところもないと断念するならば大いなる誤りで、いかなる社会の改良といえども、個人の思想より以外に起こるものではない。国家も社会もイニシアチブがあるものではない。人あって初めて問題も起こり改良も行われるのである。 我々も、よし富豪者にあらずとも、また一方、労働者にあらずとも、お互い所有する財産あるいは所得がいかに僅少であっても、その用法については大いに思慮を要することで、金を路傍の土芥のごとくみなすのはいかにも欲がなく潔よく聞こえるが、また丁寧に考えると金は決して己れの物ではない。社会共有のもので、自分の懐に入っている間とても、なお一時社会から預ったようなものである。いわば依託金のごときものであるからして、これを無意味に浪費しすなわち土芥同然に取り扱うことははなはだ怪しからんこととも言える。あえて言葉咎めをするの意ではないが、金を土芥視するのも宝珠視するのも、要は人として金に対していかなる態度を保つかにあるから、物件所有者の精神いかんを明らかにして、初めて決すべきものであると思う。すなわち金銭財産を精神化するにあらざれば、社会の安寧進歩は覚束ない。昭憲皇太后の御歌に、 持つ人の心によりてかはらとも玉ともなるはこがねなりけり
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『論語と算盤』算盤と権利・唯王道あるのみしかるに社会にはこれらの点に深い注意も払わず、みだりに貧富の懸隔を強制的に引き直さんと希う者がないでもない。けれども貧富の懸隔はその程度においてこそ相違はあれ、いつの世、いかなる時代にも必ず存在しないという訳には行かぬものである。もちろん国民の全部がことごとく富豪になることは望ましいことではあるが、人に賢不肖の別、能不能の差があって、誰も彼も一様に富まんとするがごときは望むべからざる処、したがって富の分配平均などとは思いも寄らぬ空想である。要するに、富むものがあるから貧者が出るというような論旨の下に、世人が挙って富者を排擠するならば、いかにして富国強兵の実を挙ぐることが出来ようぞ。個人の富はすなわち国家の富である。個人が富まんと欲するにあらずして、いかでか国家の富を得べき。国家を富まし自己も栄達せんと欲すればこそ、人々が、日夜勉励するのである。