自警録 / 第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(2)
ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕れる。ゆえに実業を重んずる、否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富を為す者も許多ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏めに纏めて攻撃の的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産を破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔なる紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富を為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯するものではない。不正なる行為は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義一色で金を拵える者もある。 ゆえに富貴必ずしも不正ならず、子夏が「富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪と言えず、むしろ天の賜物という意に取れる。袈裟と坊主が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧にあらざる僧も世には許多ある。またその代りには袈裟を着た俗人もまた多い。「貯めるほど穢ないものは塵と金なり」という諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥とても貯蔵法よろしきを得たなら、清くする工夫もあろう。黄白に至りては精励克己の報いとして来たるものは決して少なくなかろう。古人の言にあるごとく、 「祖宗の富貴は詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。 人の立身や家の興るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨む心に曳かされて判断を誤りやすい。
書き下し
ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕れる。ゆえに実業を重んずる、否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富を為す者も許多ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏めに纏めて攻撃の的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産を破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔なる紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富を為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯するものではない。不正なる行為は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義一色で金を拵える者もある。 ゆえに富貴必ずしも不正ならず、子夏が「富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪と言えず、むしろ天の賜物という意に取れる。袈裟と坊主が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧にあらざる僧も世には許多ある。またその代りには袈裟を着た俗人もまた多い。「貯めるほど穢ないものは塵と金なり」という諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥とても貯蔵法よろしきを得たなら、清くする工夫もあろう。黄白に至りては精励克己の報いとして来たるものは決して少なくなかろう。古人の言にあるごとく、 「祖宗の富貴は詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。 人の立身や家の興るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨む心に曳かされて判断を誤りやすい。
現代語訳
ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく現れる。そのため、実業を重んじる、いや重んじるどころではなく、実業によって成り立つアメリカにおいては、もちろん金銭を尊び金の力を尊重する結果として、不正な方法で富を築く者も多い。少し心ある者が今日の社会の状態を見ると、実業を一括りにして攻撃の的とし、その反動として太古の仙人のような生活を主張したり、私有財産を破壊して共同主義を唱えたりしがちで、またそうする者は、いかにも精神的な人物、高潔な紳士のように、社会の一部ではもてはやされがちである。しかし、常識的に考えれば、そのような根本的な思想は、とうてい行われるはずがない。また、不正な方法で富を築く者がいるとしても、不正と富とは必ずしも連動するものではない。不正な行為は富の外でも行われる。不正な行為で名誉を得る者もいる。その代わり、律義一筋で財をなす者もいる。 だから、富貴は必ずしも不正ではない。子夏が「富貴は天にあり」と言ったのは、解釈によっては、富貴は必ずしも悪とは言えず、むしろ天の賜物という意味にも取れる。袈裟と坊主が必ずしも一緒にあるわけではない。いわゆる僧ではない僧も世には多い。その代わり、袈裟を着た俗人もまた多い。「貯めるほど汚いものは塵と金」という諺があるが、これも貯め方によるだろう。おそらく塵芥でも、貯蔵の仕方がよければ、清くする工夫もあるだろう。金銭に至っては、精励と克己の報いとして来るものが決して少なくないだろう。昔の人の言葉に、 「祖先の富貴は詩書の中から来る。祖先の家業は勤倹の中から来る」 とある。人の出世や家の興りを評するには、よほど注意しないと、とかくうらやむ心に引きずられて判断を誤りやすい。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(1)例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。
-
自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずさらにまた「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」というような意味の言を漢籍の中で読んだこともある。とにかく東洋古来の風習は、一般に金銭を卑しむこと甚だしいもので、君子は近づくべからざるもの、小人には恐るべきものとしたのであるが、畢竟貪婪飽くなき世俗の悪弊を矯めんとして、ついには極端に金銭を卑しむ様になったものと思われる。これらの説は青年諸君は深く注意を払わねばならぬ。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらず幸いにして世間一般の進歩とともに金銭上の取り扱いも改まって、利殖と道徳と離れまいとする傾向が増して来た。ことに欧米にては「真正なる富は正当なる活動によって収得せらるべきものである」との観念が着々実行されて来ているが、我が国の青年諸君も深くこの点に注意して、金銭上の禍に陥らず、ますます道義とともに金銭の真価を利用するように勉められんことを望むのである。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじた所があるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって直ちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしと言わねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である。して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所はさらにないではないか。この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく「道を以てせずして之を得れば」という所によく注意することが肝要である。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずしかし前述のごとく人情の弱点として、利慾の念よりともすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものであるが、かくなりては責めその人にありとは言うものの、金銭の禍を恐れてその価値を卑しく観るようになって、再びアリストテレスの言を繰り返さしむるに至るであろう。