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自警録 / 第八章 世に蔓延る者は憎まる・所信の貫徹に潜める大苦心(2)

また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂を痛め、あるいは跪いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往き来したという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆されて南軍についた。その決心を固くするまでの苦心はいかに辛かったであろう。 また信長が寡兵を督して桶狭間に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西郷南洲が廟堂より薩南に引退した時の決心、また多数に擁せられ新政厚徳の旗を揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能わぬ。 また某碩学がかつて那須与一の琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷をたたいて賞賛したこの勲を聞き、泣くとはその意を得ぬと詰ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏軍の名誉をただ一身に荷って弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞歎したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪えぬと。実に見る人が見れば、何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

新字:また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂を痛め、あるいは跪いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往き来したという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆されて南軍についた。その決心を固くするまでの苦心はいかに辛かったであろう。 また信長が寡兵を督して桶狭間に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西郷南洲が廟堂より薩南に引退した時の決心、また多数に擁せられ新政厚徳の旗を揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能わぬ。 また某碩学がかつて那須与一の琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷をたたいて賞賛したこの勲を聞き、泣くとはその意を得ぬと詰ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏軍の名誉をただ一身に荷って弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞嘆したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪えぬと。実に見る人が見れば、何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

書き下し

また米国の南北戦争にリー将軍が南軍につかんか、北軍に走らんか、これを決するためには終日終夜心魂を痛め、あるいは跪いて神意を伺わんとしたり、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を往き来したという。こうなると細君も相談相手にならず親友も依頼するに足らなかったか、ついに義理に絆されて南軍についた。その決心を固くするまでの苦心はいかに辛かったであろう。 また信長が寡兵を督して桶狭間に突進するに先だち、いかほど心を労したろう。また西郷南洲が廟堂より薩南に引退した時の決心、また多数に擁せられ新政厚徳の旗を揚ぐるに至った心中は、おそらくはその周囲におった人にも分からなかったであろう。かくいう僕などにはその十分一だも想像し能わぬ。 また某碩学がかつて那須与一の琵琶歌を聞き、さめざめと泣き出したとき、傍の人がこの勇壮なる歌を聞き、何で泣かるるか、ことに与一が弓を満月のごとく引き絞り、矢を放った時、敵も味方も舷をたたいて賞賛したこの勲を聞き、泣くとはその意を得ぬと詰ったとき、某は暗然として答えて言った。数千の軍中よりただ一人選抜された名誉は顧みぬとしても、全源氏軍の名誉をただ一身に荷って弓を引いたときの心はいかであったろう。命中したればこそ敵も味方も賞歎したものの、弓を引き絞った時、矢を放った時の心の苦しみはどうであったろう、思ってここに至ればまことに同情に堪えぬと。実に見る人が見れば、何人の行為についても、一大決心をもってするもので、自己の所信、自己の意志を貫徹することの容易ならぬことが察せらる。

現代語訳

さらに米国の南北戦争のとき、リー将軍が南軍につくか北軍に走るか、それを決めるために、一日一晩心魂を痛め、あるいはひざまずいて神の意を伺い、あるいは思案に沈んで、ほとんど無意識に一室を行ったり来たりしたといいます。こうなると妻も相談相手にならず、親友も頼るに足りなかったのでしょう。ついに義理に引かれて南軍につきました。その決心を固めるまでの苦心は、どれほど辛かったことでしょう。 また信長が、わずかな兵を率いて桶狭間に突進する前に、どれほど心を労したことでしょう。また西郷南洲が、政府の中枢から薩摩に引退したときの決心、また多くの人に擁されて新政厚徳の旗を揚げるに至った心中は、おそらく周囲にいた人にさえ分からなかったでしょう。こう言う私などには、その十分の一も想像できません。 またある碩学が、かつて那須与一の琵琶歌を聞いて、さめざめと泣き出したことがありました。そばにいた人が、この勇壮な歌を聞いてなぜ泣くのか、とくに与一が弓を満月のように引き絞って矢を放ったとき、敵も味方も舷をたたいて賞賛したという手柄を聞いて泣くとは、わけが分からないと詰め寄りました。すると某氏は暗然として答えました。数千の軍勢の中からただ一人選ばれた名誉はさておき、源氏軍全体の名誉をただ一身に背負って弓を引いたときの心はどうだったろう。命中したからこそ敵も味方も賞賛したが、弓を引き絞ったとき、矢を放ったときの心の苦しみはどれほどであったか。思ってここに至ると、本当に同情に堪えない、と。実際、見る人が見れば、誰のどんな行為も大きな決心をもってなされるものであり、自分の信念、自分の意志を貫くことが容易でないと察せられるのです。

解説

リー将軍は南北戦争の際、南軍につくか北軍につくかで一昼夜苦しんだ末、義理から南軍に立ったと新渡戸は語ります。信長、西郷、那須与一と、勝って名を残した人々にも、決める前の孤独な苦しみがあったと重ねます。与一の琵琶歌に泣いた碩学の話が印象的で、成功の喝采より、射る直前の重圧に目を向けています。部下の成果を見るとき、結果だけでなく、決断の手前の重さを想像する姿勢は、評価の質を変えます。
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この章句が説くこと

リー将軍桶狭間西郷南洲那須与一決心同情

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