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自警録 / 第四章 外は柔、内は剛・柔和の心は相手の柔和の心を抽き出す

かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば諺にも、「世は情け」という通り、人情が敦厚なれば、――もっと砕いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美わしきもの、生ける甲斐あるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も触りようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、 「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」 と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴がという気が起こりやすい。世を渡るには、 「御免なさい御免なさい」 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯とはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被るとか、猫なで声で人を瞞着するとか、西洋でいう羊の毛を被る狼のごとく、偽善の最も甚だしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と誣うるならば、それと同じく剛毅もまた偽善に供することが出来る。決して偽ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば偽が出来るはずはない。善ければ善いほど種々の偽も出来る。猫被りが多いというは、取も直さず柔和は何人でも重んずる証拠である。

書き下し

かく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば諺にも、「世は情け」という通り、人情が敦厚なれば、――もっと砕いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美わしきもの、生ける甲斐あるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も触りようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、 「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」 と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴がという気が起こりやすい。世を渡るには、 「御免なさい御免なさい」 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯とはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被るとか、猫なで声で人を瞞着するとか、西洋でいう羊の毛を被る狼のごとく、偽善の最も甚だしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と誣うるならば、それと同じく剛毅もまた偽善に供することが出来る。決して偽ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば偽が出来るはずはない。善ければ善いほど種々の偽も出来る。猫被りが多いというは、取も直さず柔和は何人でも重んずる証拠である。

現代語訳

こうして人情の大体から考えても、そうありそうに思われます。なぜなら、諺にも「世は情け」というとおり、人情が厚ければ、もっと砕いていえば、親切とか思いやりとか誠とかがあれば、人の世は美しく、生きる甲斐のあるもののように思われるからです。そしてこれらの親切、思いやり、誠がどのように現れるかといえば、こちらが親切、思いやり、誠を示すと、その反響として相手にも現れることが多いのです。いわゆる売り言葉に買い言葉で、こちらが柔和で穏やかな心で人に接すれば、相手の柔和な心を引き出します。鐘も撞きようであり、人の心も触れようです。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば、相手も 「ありがとうございます。まあ、どうぞおかけください」 と遠慮の心が起こります。しかし無理に押し込んで入れば、なにこいつが、という気が起こりやすいものです。世を渡るには 「ごめんなさい、ごめんなさい」 と遠慮がちにすることは、必ずしも卑怯とはいえません。人によっては、これはずるい方法で、猫をかぶるとか、猫なで声で人をだますとか、西洋でいう羊の毛をかぶった狼のように、偽善のもっともはなはだしいものだと思う者もいます。もちろん偽善の一つの方法ともなり得ますが、しかしおそらく世の中のことで、偽善になり得ないものはないでしょう。柔和を偽善だと責めるなら、それと同じく剛毅もまた偽善に使えます。偽物があるからといってその者を非難するわけにはいきません。むしろ偽物が出るのは、本物がよいからです。悪いものなら、偽物ができるはずがありません。よければよいほど、いろいろな偽物もできるのです。猫かぶりが多いというのは、取りも直さず、柔和は誰でも尊ぶ証拠です。

解説

こちらの柔和さが相手の柔和さを引き出す、という人間関係の反響の原理を、鐘の撞き方の喩えと電車の席の例で説いています。柔和は偽善ではないのかという疑いに対しても、偽物が出るのは本物が尊ばれている証拠だと答える点が特徴です。新渡戸の議論は、柔和を戦術として使えというのではなく、人情の自然な作用を述べています。現代の職場でも、まずこちらから丁寧に接した方が、相手からも丁寧な応答が返りやすいという経験は多くの人にあるはずです。
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この章句が説くこと

世は情け柔和反響売り言葉に買い言葉偽善鐘も撞きよう

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